角館という町 9

 思いがけずに、「狩野亨吉」さんが登場することになりです。
金原省吾さんとか、国府犀東さんという名前は、今回の今橋理子さんの解説で初めて
目にしたのでありますが、狩野亨吉さんについては、最近に次のところで話題にして
おりました。
http://d.hatena.ne.jp/vzf12576/20120207
 平福画伯と狩野亨吉さんを結びつけたのは、国府犀東さんという方で、この方は、
「金沢出身の文筆家で、漢詩新体詩人としても知られている。四高を経て東京帝国
大学法科を中退。のち明治四十(1907)年内務省に入り、さらに宮内省ご用掛なども
務め、大正・昭和の詔勅を起草したという。百穂との関係は、明治三四年百穂が二十五
歳、犀東二十九歳の折、犀東も執筆者の一人として関わっていた雑誌『新声』の発行元
である新声社(「現在の新潮社の前身、角館出身の佐藤義亮が社主をつとめていた)に
百穂が入社したことがきっかけであったとみられる。」
 国府さんは、金沢の人ですが、この引用のなかにも重要な角館出身の人物がでてい
ます。そうか新潮社もルーツは角館であるか。
アララギ 平福百穂追悼号」によせた国府さんの文章には、貴重なエピソードが
あるのですが、これは今橋理子さんの解説に比較的長文で引用されていますので、
ここでは狩野亨吉について国府犀東さんが書いているところを「アララギ追悼号」から
引用してみます。(原文は旧字旧かな)
「狩野亨吉博士というと、一高でもって沈黙の校長と呼ばれ、京都大学の基石として
文科大学初代の学長を勤められ、松本文三郎、松本亦太郎、西田幾多郎狩野直喜
内藤虎次郎、西村天囚などの実力ある人材を京都に集めて、新学府をつくりあげ、宿望
を遂げられたのを見て、今数月で恩給を受ける身の上になるべきをも顧みず、突如とし
て辞表を提出した。天文学者で数学者で、哲学者であった。理科と文科を卒業し、学生
時代からカントを以て任じているという、恐らくは帝大が輩出した彬々たる無数の
学者中で、最も高く傑出した偉大さを有してる貴台の鴻儒とも申すべき人である。
世の中から忘れられておられても、その偉大さには毫も増減がない。」