角館という町 8

 昨日に記しました「息子さんの『年譜草案』には、なぜ『日本洋画の曙光』がさらり
としか取り上げられていないのであるかという謎」は、当方がそう思ったことでありま
して、文庫の解説を担当している「今橋理子」さんが謎といっているわけではありませ
ん。
 今橋さんは、「日本洋画の曙光」という本の成り立ちについては、平福百穂画伯が
アンカーをつとめる「秋田と角館を軸とする知の共同体」の成果品であって最終的には、
平福百穂画伯の著作になるにしても、そうした背景について著者自らもすこし言及して
いたほうがフェアではないかといっているのでした。
 岩波文庫にはいった「知られざる名著」でありますが、名著であることには疑いが
ないのですが、その著作ができるにあたって一番のアイディアを示してくれた人物への
オマージュがないというのでありますね。
 今橋さんの解説の最後の部分です。
「三十年近い月日をかけて、百穂は直武の子孫や安藤和風らの郷土史家、あるいは金原
省吾という若き美術史家の力も借りて、秋田蘭画が描かれたわずか六、七年間の時代を。
多くの資料の中から再現してみせることになる。そしてそこに、この研究の大命題でも
あった『日本洋画の始祖とは誰か?』という美術史上の問いの答えを、明確に提示する
事に成功したのであった。」
 ここまでは光の面であります。若き美術史家 金原省吾さんの役割は、相当に大き
なものであったようで、この方の名前は、平福画伯のあとがきにも次のように記されて
いました。
「編集、筆記、校正等については、専ら金原省吾君、横川三果くんを煩わした。」
 また解説に戻ります。ここからは影の部分です。
「だが、なぜか最期まで百穂は、自らの秋田蘭画との出会い、そして『日本洋画の曙光』
成立までの壮大な『知の共同体』の存在を明白にすることはなかった。同書の『巻末記』
には、わずかに安藤や金原の名は記されたものの、彼らがこの書において美術史学的に
果たした役割はほとんど見えてこない。ましてや若き日の百穂に、直武や曙山の驚くべき
先進性を、そしてその芸術に宿る情熱に熱く火をつけた、国府犀東との友情も、狩野亨吉
の透徹した知性の有り様も、百穂は残念ながら生涯語ることはなかったのである。
 『日本洋画の曙光』という著作の、歴史上における光と影のうち、唯一この点だけが
『影』として映ることが惜しまれる。」
 思いがけずに、ここにも狩野亨吉さんが登場することになりです。
 一月ほど前に、「読書名人」として狩野亨吉さんに言及しておりましたが、このような
ところで、また話題にのぼってくるとはです。