小沢信男著作 182

 小沢信男さんの向島散歩ですが、同行は辻征夫さんで、ここは詩人が育った場所です。
 小沢さんは、辻さんの詩作品「星」に着目して、次のように書いています。
 この「星」という作品は、「星菫派」という言葉から触発されたものだそうです。
「 鉄管、機械の破片、針金・・・こういうものが転がっているのは、すなわち生産の
 町の光景です。墨田区荒川区など、隅田川沿岸の景色と言ってもいいでしょう。
  そういう街に育った詩人の、屈折どころか針金みたいにからんだ心が、いきなり
 ストレートに届く恍惚。さしずめ空地の星菫派の味わいでしょうか。」
「星菫派」というと、「1946 文学的考察」冒頭におかれた「新しい星菫派に就いて」
を頭に思い浮かべました。加藤周一さんによって書かれたものですが、「戦争の世代
は、星菫派である。」という書き出しにインパクトがありました。もちろん、この場合
の「星菫派」は、否定的な意味合いであります。
 戦時中のエリートである旧制高校生の一部を批判的に「星菫派」と、加藤周一さんは
定義したのですが、他からは加藤周一さんも「星菫派」ではないのかと返されていまし
たですね。
 こうした文脈での星菫派とくらべてみると、「空地の星菫派」という言い方の中に
は、すくなくとも否定的な意味合いは見えてきません。「星菫派」が宝塚のような
「清く、正しく、美しく」ということを信奉しているとすれば、「空地の星菫派」には、
雑草と見間違うようなたくましいすみれを見てとることができます。
 辻さんが、「そういう街に育った」ことに「屈折どころか針金みたいにからんだ心」
であります。
 散歩しながら、小沢さんと辻さんの会話です。
「『うちと学校の間に鳩の街が横たわっていて、校則で通り抜け禁止だから、直線なら
 徒歩数分だけれど、回り道するから遅刻もした。たまに帰りに通り抜けると、眼鏡の
 坊や、先生に内緒にしとくからお上がり、なんて戸口のお姉さんに言われて。
 どうしようかなと思っているうちに廃止になった。三年性の時だね。』
 『中学はどこだったの』
 『麹町中学』
  ・・・・
 『いやらしい。教育パパとママのせいか』
 『だから反省して、高校はこっちにもどった』
 『それで大学がまた、白雲なびく駿河台でしょ。小中高大が、下町と山の手の念入り
 なちゃんぽんなんだ』
 『あなただって、そうなんでしょ』」
 向島から都電にのって、麹町中学へと通っていて、ここでは代議士の息子たちと同級に
なり、そのなかの一人は「加藤紘一」さんだそうです。