小沢信男著作 180

 向島散歩にでかけた小沢信男さんは、辻征夫さんと隅田区役所を出発し、長命寺裏の
桜餅で一服し、辻さんが育ったコアな向島に向かいます。
「川を背に、墨堤通りをまたいで、向島五丁目の横丁に歩み入ります。花街のはずれの、
料亭や小料理屋もちらほらする路地を、くねくね折れ曲がってゆくと、ラビリンスみた
いで面白いったらない。見通しはきかないし、ふりむくともう来た道が見えない。
 向島一帯は元来が農村で、大正期からぼちぼち工場が建ち、大震災後にいきなり市街
化が進んだところだから、この路地の曲がり具合は畦道のなごりでしょう。さらに向島
四、五丁目と京島界隈は戦災もまぬがれた。近ごろ表通りはビルで様変わりとはいえ、
一歩裏に入れば、まだまだ東京の面影は濃密なのでありますよ。」
 東京大空襲本所区は壊滅したかと思いきや、向島の一部はまぬがれたところがあった
のですね。古い地図を手にして街歩きといえば、「ぶらタモリ」という番組があります
が、あれで向島界隈を訪ねるというのは、あり得ないように思います。「タモリ倶楽部
では実現可能かもしれませんので、そちらで期待することにしましょう。
この路地は、かってどこそこの田んぼの畦道であったなんていうのを聞いてみたいもので
あります。
「五叉路に来ました。どの路もくの字に曲がり、渦巻きの中心にいるようで目が回りそ
う。辻征夫の家のすぐそばらしいので、『これで迷子にならなかったのかね?』『・・・
・』当惑そうな苦笑を浮かべただけ。」
 なるほど地図を見ますと「五叉路」が見つかりました。この近くで辻さんは育ったので
ありますね。
「幼年の辻征夫にとって、世界はこういう路地の形をしていたのでしょう。
 いきなり啓示がひらめきました。一見平易な辻征夫の詩に、案外屈折が多い原因につい
て。後世、辻征夫論を書く人は、一度はこの向島の路地に来てみる必要がありましょう。
そのためには、この路地の町全体が、このまま後世に伝わる必要がありますが。
 ちなみに、先輩詩人の関根弘も、この旧寺島町の育ちです。また幸田露伴の蝸牛庵跡
が、いま児童遊園になっています。」
 寺島町というのは、滝田ゆうのまんがの舞台となっているもののようです。向島と寺島
町というのがこういう位置関係になっているとは、まったく知りませんでした。