小沢信男著作 148

 小沢さんによる本所についての続きです。
「徳川二百五十年の泰平と一口にいうけれど、元来は軍事都市なのだった。内堀外堀を
めぐらし、寛永寺増上寺は北と南の出丸の砦であり、下町なんぞは一朝有事とあらば
焼きはらう薪のようなもの。道筋は折れまがり突きあたり行きどまり、なるべくわかり
にくく造った。坂も無数にあった。明治このかたの再々の道路改正にもかかわらず、
いまだに都心の道路がどこかわかりにくいのは、いうなら軍都江戸の名残なんですな。
以上は隅田川以西のこと。徹底的に江戸城を中心にした町づくりなのである。」
 隅田川は、大川といわれるくらいですから、幅がひろくてなかなか橋をかけるのが
たいへんであったと思われますが、橋がすくなかったのは、軍事面のこともあったとの
ことです。
 江戸城を守るための要塞都市が、隅田以西となると、隅田以東はなにかです。
隅田川の西と東では、町づくりの性格が根本からちがうのです。本所・深川はハナ
から軍事を捨てて、産業振興と宅地造成を目的とした。誕生のときから平和の町なので
ある。だから、天下泰平を江戸幕府二百五十年の治世の誇りとするならば、本所・深川
こそ江戸の華ということになる。」
 軍事優先のまちづくりは、堀をつくるにしても迷路にちかいかたちにして、産業振興の
堀は、水運のためですので、できるだけまっすぐにつくるとなります。
本所の町が碁盤の目のまちづくりになっているのは、明暦の大火で壊滅状態になったから
とあります。碁盤の目にできたのは、土地の所有についての考え方が近代と違うからで
ありましょう。
 戦争で焼け野原となった町で、町の作り直しで、土地区画の見直しをやった事例は
どのくらいありますでしょう。
「水運をこんなに徹底して捨てまくりモータリゼーション一本槍にした国が、つまり
経済効率のほかには頭のまわらないみたいな国が、日本のほかにあるだろうか。
その戯画的光景を、ここもまぬがれてはいないこれども。
 そうではなるが本所・深川は、今日もなお堂々たる五番目の町である。大通りも横町も
裏道も路地も廂間も、律儀に直角に交差して、その路地ごとに植木鉢がひしめいて、四季
を彩っておるのですよ。」