小沢信男著作 222

 小沢信男さんの「悲願千人斬の女」のあとがきを読んでいます。小沢さんの著作を
紹介しているのですが、小沢さんのあとがきは、自著解説のようなところもあって、
とてもありがたいものです。本文を読む前に、あとがきをのぞくというのは、推理
小説のなぞときを先に読むようなものであるのかもしれません。
 この著書に登場する四人とのことについて、小沢さんのあとがきからです。
「松の門三艸子の名をはじめて耳にしたのは三十代。タウン誌『うえの』の昭和39年
(1964)七月号に『女の魅力』と題する座談会がのり、顔ぶれは木村毅田辺茂一
小月冴子ほか。席上、木村氏の口から千人斬り達成の二人の女性が紹介され、同誌の
記者として部屋の隅にいた私は、眉唾ながら傾聴し、以来宿題となったのでした。」
 表題作ともなった「悲願千人斬の女」の主人公である「松の門三艸子」さんの
ことを聞いてから、文章を発表するにいたるまで三十二年であります。
 当方などは、この女性の名前の読み方もわからないのでありますが、この方は、
「明治初期の有名歌人で、その業績は筑摩書房『明治文学全集』の『明治女流文学
集(一)』(1966年刊)に容易に見られる。税所敦子、中島歌子、下田歌子などと
肩をならべて『松の門三艸子歌集(抄)』が収められている。」と小沢さんの文中に
あります。この方の名前には、ふりがながふられていて、「まつのとみさこ」と
ありました。
 次の引用も文中からです。
「近刊の人物事典等にも簡略な記述はある。『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞
社・1994年刊)の『松の門三艸子』の項には『父は江戸下谷数寄屋町の名主小川宗兵
衛。母は寿賀。容姿すぐれ十三歳で結婚したが、夫と死別し、実家へ帰って井上文雄
に和歌を学び、同門の大野貞子とともに桃桜とたたえられた。実家没落後、深川芸者
になり、維新の元勲等の殊遇を得る。晩年は歌塾を開き、短歌雑誌の選者にもなるな
ど人気歌人となった。」 
 どうしてこの女性が「悲願千人斬」なのでしょう。
「彼女をめぐる男たちの噂は、大名や元勲たちにかぎらない。歌の師匠の井上文雄も
その一人だし、尊皇の志士や、江戸八丁堀の与力や、深川の幇間や、俳諧宗匠や、
一代で財閥を築いた実業家もいる。彼女は裕福な町家の娘から、芸者、歌人と転身
しつつ、大名から幇間まで四民平等に撫で切って、ついに千人斬を達成したのである
らしい。
 ときに明治十二年(1879)。彼女はすでに数えの四十八歳。大願成就を祝って、ご
存命の関係者各位にお赤飯をくばったという。堂々と明るくて、佳話であろう。」
 このようにお赤飯をくばったことによって、彼女は伝説の人物になったのであり
ます。さて、この話は、いったい本当であるのかということで、文献調査をした
結果を記したのが、この文章であります。