小沢信男著作 155

 小沢信男さんが「写真集 東京下町親子二代」に寄せた「本所 あの道 この道」と
いう文章から話題をいただいております。小沢さんが、この本で取り上げた高田浪吉と
松倉米吉の友情に触発され、その関係を調査した成果は、この本からちょうど10年
たった2002年にEDI叢書の一冊として「松倉米吉・冨田木歩・鶴彬」として結実するこ
とになります。
 この本のあとがきに、なぜこの三人で一冊であるかについて、次のように書いていま
す。
 「三人とも、夭折した短詩型作家である。その活動の時期は大正なかばから昭和12年
まで、二十年ほどの間に踵を接している。
 生い立ちにも、共通する面がある。働き手の父を失い、小学校をでるとすぐ徒弟奉公
や、少年工となった。
 この三人は、地域的にも共通する。松倉米吉の本所、冨田木歩の向島は、ともに主な
活動の舞台だった。・・」
 ちょっと寄り道をして、このEDI叢書の小沢信男さん「松倉米吉」のくだりを紹介して
みましょう。
 当方の記憶のどこかに「松倉米吉」の名前がすり込まれていたとしたら、それは松倉
の処女歌集が、古本カタログで高額であったせいでしょうか。亡父はアララギの代表で
あった土屋文明先生を尊敬していて、初期歌集などの入手を試みていたのですが、その
何冊はとても高価でありました。同じアララギ歌人のもので、名前も聞いたことが
ないのに高額で販売されていたのが、思えば松倉米吉歌集でありました。
 この時は、どのような歌人であったのかは知らずです。
「松倉米吉は、明治二十八年(1895)に新潟県糸魚川町に生まれた。幼にして父と死
別し、家庭崩壊。当時四年制の尋常小学校を終えた翌年、母を追って状況する。母が
同棲する仮の父の家は隅田川の東、本所にあった。近くの町工場に働くうちに、職場の
同僚にさそわれて短歌の道へすすみ、『アララギ』へ入会する。やがて母を喪い、
結核を病み、職場も転々としつつ、地域の短歌仲間との研鑽はおこたらなかった。
喀血をかさねて大正八年(1919)十一月二十五日、築地の東京市施療病院にて没。
数えの二十五歳、満で二十三歳十一ヶ月のみじかい生涯だった。」