小沢信男著作 142

 小沢信男さんの文章に引用されている芦原将軍がなくなった時の新聞記事です。
 将軍に関する「読売新聞の夕刊」の見出しからです。
「 芦原将軍病篤し 悲嘆にくれる後輩共」、これは昭和十二(1937)年一月十六日
のものだそうです。亡くなったのは、これから半月後のことです。最近は、テレビの
ワイドショーなどでとりあげそうな話題ですが、この時代には新聞というのは速報性
の強いメディアであったことがわかります。
 この見出しに導かれる本文は、次のようになります。
「昨秋来老衰病の処へこの寒さが祟って衰弱日に加はり、毎年紙の大礼服で院内の
人達から年賀をうける得意の元日にも元気なく寝込んでしまった。・・(略)・・
十四日病床を見舞ひ担架で重病室に移さうとしたところ病むとも三軍ならぬ院内を
叱咤してゐた将軍声もあらわに『わしはいやしくも将軍だ、そんなものに乗れるか
・・・』とヨロヨロしながらひとりで重病室に入った。」
 このような記事をみますと、ずいぶんと「将軍」は人々に知られているということ
がわかります。
 この新聞記事につけられた小沢さんの解説です。
「住み慣れた南第二病棟から西重症病棟へ、担架を拒否してあるいたのは、瀕死の
将軍のいかにも最後の矜持であろう。そしてこのさい、老将軍のいさぎよさを殊更に
描いてみせるのは、横暴傲慢のかぎりの軍部への、どこか皮肉にはなってはいないか。」
 小沢さんは、「小説昭和十一年」を書いて、そのなかで二二六事件のことと、阿部定
を話題としていますが、芦原将軍がなくなった時のことについては、以下のように
記しています。
「将軍没時の昭和十二年二月に私は小学三年生だったが、べつだんの記憶がない。
前年五月の阿部定事件は鮮やかに覚えているのに。あれほど衝撃的ではなかったし、
身辺の大人たちも政変の噂や、除雪作業に忙しかったのか。」