小沢信男著作 227

 小沢さんが「稲垣足穂」に近しいものを感じる、もうひとつの理由は、小沢さんの
御父上つながり(?)であります。
 当方は、小沢さんの著作のなかに、小沢さんが顔をだすところが好きでありまして、
この「稲垣足穂」に関わる文章のなかでも、そこに注目しています。
「余計事で恐縮ながら、じつは私の亡父が足穂と同窓であったのかもしれないのです。
父は足穂より二歳年上になるが、東京に唯一の自動車学校をめざして十九歳で上京し
た。」
 当方にとっては、余計なことどころかであります。足穂は、明石の歯科医の息子で
あって大正八年四月に関西学院を卒業すると、すぐに上京して、羽田にあった
「日本自動車学校」に入学するのですが、小沢さんの御父上もここをでておられるとの
ことです。
「羽田は当時は東京市外の荏原郡で、海辺の芦原だった。大正五年(1916)、この
原っぱに日本最初の民間飛行学校が開校する。つづいて自動車学校もできて、どちら
も校長は相羽有。アメリカ帰りの新知識の青年実業家だった。足穂は飛行学校を
望んだが眼がわるくてはねられ、自動車に回ったのだ。自動車も充分モダンで
カニックだ。」
 足穂が免許を取得したのは、大正八年六月とあります。小沢さんは「三ヶ月足らず
で順調の成績だろう。」と書いています。苦学した御父上と較べたときには、うんと
恵まれていることです。
「自動車学校の生徒には、道楽息子たちと、高収入期待の貧乏人たちの二階級が
あった。」ともあります。もちろん足穂は、道楽息子のほうでありましょう。