小沢信男著作 44

 小沢信男さんの「大東京24時間散歩」に収録された「物資流通の労働現場」の連載ル
ポについて、79年に書かれた「高度成長時代の人間ドラマ」という文章で、次のように
書いています。
「私の連載ルポは、折しも物資流通の各部門で進行中の合理化の、目撃集でもあるのだっ
た。どこがどこまで合理化できるか、どこがどうにも合理化しにくいか。そうして現場の
労働者各位は、その合理化のベルトに、あるいは乗せられ、あるいは外され、あるいは
ハジキとばされかかっていた。最終回の第十回目には、やはり横浜にゆき、コンテナ船や
ラッシュ船の登場で仕事をなくしたハシケたちの、乾干しになった船頭さんたちを訪問し
たのだった。
 そんなわけで拙文は、1970年代の高度成長期の、世をあげて合理化路線の、流通部門
における現場のありようの、ささやかな記録にはなりえていると思う。東京というマン
モス消費地帯への物資の流入口は、ふだんの市民生活には目につかぬ端っこのほうに
あって、そこで日夜と働いている人たちがいるのだった。そのボースン(監督・主任etc)
とヒラでは、やはりてきめんに意識のちがいがあるのだった。など、など、など。
 あれから八年。光陰矢のごとく、日本は低成長時代を迎え、おそらく合理化は各現場
で、いよいよ煮詰まっているのであろう。」
 ルポが書かれてから40年も経過がしますが、合理化といってもあの頃はまだまだのん
きな時代であったのかもしれません。(当方が就職したのは74年ですが、当方の仕事場
が合理化からはるかに遠いものであったせいかもしれません。)
 いまと事情がまったくかわってしまったものとして「リヤカーの三十年」というルポが
あります。宅配という仕組みがまだほとんどなかった時代です。
 当方が大学にはいって自宅を離れた時には、食事のつかない下宿(数年前まではまかな
い付きでしたが、大変なので食事提供はやめてました。)に住まいを決めて、ここに布団
を送ることからスタートするわけです。送るにあたっては使える運送やというのはなく
て、国鉄の駅に持ち込んで、手荷物にする小荷物にしたわけです。手荷物は、汽車の切符
を見せることが必要で、その分運送代金が安くなりました。こうした時に国鉄とセットに
なっていたのは日通でした。
 「リヤカーの三十年」は、小口輸送が小荷物といわれていた時代の話です。
「このたびは東急の東横・目蒲線の田園調布にゆき、駅前の日通営業所を訪れた。
 東京の典型的なお邸町における、荷物の流通ぶりを伺おうという次第・・といえば
もっともらしいが、いやなに、この営業所では、リヤカーが二台いまも現役で活躍してい
るという。トラック万能の時代に、古色蒼然たるリヤカーのご健在とは、ちょいとした話
の種ではあるまいか。・・・・
 さて、その営業所は、モルタルバラック風な簡素な事務室に、仮小屋風な作業場が附
属していて、どうやらこの街における最低にお粗末な建物のように思われる。営業種目
は、手荷物・小荷物・貨物の発送と到着の扱い。なかでも過半を占めるのが手・小荷物の
到着便の配達である。」
 この営業所にも、もちろんトラックは三台あったといいますが、駅の周辺への配達には
リヤカーが活躍したとのことです。ほとんど戦前の風景のようであります。