小沢信男著作 15

 小沢信男さんの、文学の師のお一人は、詩人の丸山薫さんでありました。
昨日は「サンパン」からの引用を行いましたが、詩人の丸山さんについては、
「いまむかし東京逍遥」(晶文社)にも「日比谷公園の鶴の噴水」という文章が
収録されています。こちらの文章には、次のようにあります。
「 丸山薫の詩にはじめてであったのは『物象詩集』(1941年刊)においてで、
これは中学生の私が新本屋で買ったわずか二冊の詩集のひとつなのだが。・・
当時、私は肺結核の療養中だった。敗戦でせっかく自由にはばたける時代がきた
というのに、血痰を吐いて安静を命じられ、あたら二十歳の身空で万年床に仰向い
たまま、せめて詩集でも読んでいた。
 好きな詩集うに出会うたびに、それを下手にまねた詩がやたらに書けた。ノートが
何冊もたまった。そのうち、ただ書いているのでは物足らず、ひそかに傾倒する詩人に
読んでもらおうと思いたった。」
 小沢さんの詩作品は、後年になってまとめられて「赤面申告」という詩集になりま
した。これには初期の詩が掲載されているのですが、この詩集に収録時に手が入って
いるようです。
詩集 赤面申告 1975年4月26日刊行 朔人社 限定500部


 この詩集のあとがきから引用します。
「年少のころ、私は詩人でありたいと思いつめていた。すると天の感ずるところにや、
詩が毎日のように湧いてきて、私はそれをノートにかきとめればよいのだった。
やがて一冊の詩集が編めるだろう。そうすれば死ぬにもいくらか死にやすい気持ち
だった。
 それが、そうはならなかった。私は胸の手術をして健康をとりもどし、そのころ
から詩が遠ざかって、散文がやってきた。そのまま耄碌としてこんにちに至るのだが。
しかし長生きはするものだな。このほど、天に代わって菅原克己氏の感ずるところに
なり、詩集をださぬかと誘ってくださったのだ。」
 こうしてできた第一詩集は、丸山薫氏に献じられています。