小沢信男著作 225

 「悲願千人斬の女」の小沢信男さんによるあとがきの紹介を続けます。
 次は、稲垣足穂さんについてであります。小沢さんと稲垣足穂さんの接点はなんで
ありましょう。まずはその接点についてであります。
「 稲垣足穂その人に出会ったことはないけれども、その盟友丸山薫は、じつは弱年の
私がはじめて文学の師と仰いだ方です。二十代を通してひんぱんな文通と、おりふしは
お会いもしたのに、両氏の親交をなにも存ぜず、丸山氏の没後に全集その他を読んで、
やっと思い当たった。こんな場合は、あとの祭りの機縁でしょうか。」
 小沢さんにとって稲垣足穂さんは、先生のお友達であるのでした。
 この本にあります稲垣足穂さんについての文章「超俗の怪物」からです。
「ダンス教習所にほど近いこのアパートを、足穂は友人の丸山薫に紹介し、やがて時分
もその向かいの部屋に移り住んだ。吹き溜まりの仲間入りをした。
丸山薫全集』年譜によれば、これは昭和六年(一九三一)秋から翌年春までにあたる。
丸山薫は大学を中退したまま職業もなく、親の遺産も食い詰め、落魄のなかでただ詩を
書きたい一心でいた。妻を実家にあずけ、単身上京して、一つ年下ながら落ち目にかけ
ては先輩の稲垣足穂を頼ったのだ。
 丸山薫は二十貫をこす巨体だった。三十そこそこの両デブは、意気投合した。薫は船
乗り志望で東京高等商船学校に入学したが、巨体でマストに登れず挫折して、三高に入り
なおした。海へ空への夢やぶれた二十世紀初頭の子同士だった。足穂の複葉機製作の苦心
に耳をかたむけ、翼と支柱の組み立て方などを突っ込んで質問したのは、文学仲間で
薫ひとりであったという。」
 丸山薫さんの父は内務官僚で、島根県知事をしていた時に亡くなったのだそうです。
稲垣足穂さんの父は、明石の歯科医だったとのことですから、どちらも立派はお家に
育った方であります。これ以下の家柄であれば、詩人になるなんて考えないほうが
よろしという時代であったのでしょう。