月がかわって 3

 先月に高校野球を見ていましたら、校歌が紹介されるのですが、愛知の豊川高校
ものを作詞したのは丸山薫さんとありました。
 丸山さんは豊橋市にお住まいで、豊川市というのはご近所でありますので、地縁に
よって校歌を依頼されたものでしょう。
そんなことを思っておりましたら、今月になって届きました岩波「図書」4月号で
池内紀さんの「ある碑前祭」という文章を目にすることがありました。
 この文章の書き出しは、次のようになります。
山形県西村山郡西川町の岩根沢というところに一つの詩碑がある。小学校の校庭の
すみにあって、うしろはガクッと落ちこむ谷である。雪深い地方なので、冬はおおかた
雪に埋もれ、象のお尻のような丸い大きなかたまりになっている。晴れた日には北の
かた月山の尖りがポッカリと浮かんでいる。」
 熱心なファンの方は、山形県の岩根沢と聞いただけで、これは詩人 丸山薫さんに
ゆかりの地とわかるのでしょうが、当方ははじめて知る話でありました。
 池内さんの文章からの引用を続けます。
「 詩人丸山薫と岩根沢の詩碑をめぐっては、多少ともお伽噺めいている。戦争末期
の昭和十九年(1944)、丸山薫は知人のつてで山形県西山村(当時)い疎開してきた。
岩根沢の農家の二階に住み、請われるままに小学校の代用教員をした。村を離れたの
は昭和二十二年秋である。実質この地にいたのは二年半あまりにすぎない。
 それから二十年後に詩碑がつくられ、あわせて詩碑保存会が発足、雪が消え、田植え
が終わった六月に碑前祭をする。
 詩碑に花を献じ、小学生が丸山薫の詩を朗読、お母さんたちが曲になった詩をコーラ
スでうたう。すでに三十年以上もつづけられてきた。ごくささやかな催しであれ、この
種のもののなかで、もっとも心あたたまる祝典といえるのだ。」
 戦時下に疎開した文化人は、ずいぶんといたでありましょう。当方の住むあたりにも
戦火をのがれて疎開した文化人がいて、若い人たちに影響をあたえたという話は聞く
のでありますが、その文化人の先生をしのぶ集まりが、その地を離れて70年もたって
いまだに続いているということに驚いてしまいます。