今年の終わりに 2

 本日、山口瞳さんの「追悼 上下」( 中野朗編 論創社刊)をおくっていただき
ました。

追悼〈上〉

追悼〈上〉

追悼〈下〉

追悼〈下〉

 表紙の大きな写真は、以下のものとなります。

 山口瞳さんは、気になる文筆家ではありますが、なかなかなじむことができずに、
今にいたっています。すでに没後、15年でありますが、最近になっても再編集による
「男性自身」の文庫本が新刊ででたりするのですから、新しくファンになる人もいる
のでしょう。
 当方が学生時代には、すでに「週刊新潮」で「男性自身」の連載は始まっていたので
ありますが、この年になっても「週刊新潮」は自分よりも年長者を主な読者として制作
されていると思っているのですから、学生時代には「週刊新潮」を手に取ることもあり
ませんでした。これによっている人はある意味での反動であるというのが、当時の
分かりよいレッテル貼りです。
 そんなに単純なことでないことは、その後に徐々にわかってくるのでありますが、
若いときは世間がせまく、潔癖でありますからね。
 拙ブログでも山口瞳さんに言及したり接近したことがありましたが、著書の書影を
掲載するのははじめてのことです。
 まずは、この「追悼 上」の帯にある言葉の紹介からです。
「 褒めるだけでは本当の追悼にならない ・・・山口瞳が80人に捧げた追悼文を
 一挙に集成」
  追悼文ということは、亡くなったことをきっかけとして書かれた文章であります。
「谷間に三つの鐘」ではありませんが、人間は生まれた時、結婚する時、亡くなった
時には褒められるといわれます。生まれた時は悪くいいようがありませんが、結婚した
時とか、亡くなった時に甘すぎるのはいかがと思いますが、これは褒めて終わらせた
ほうが無難であります。
 この本をぱらぱらとめくってみて、あちこちで手が止まりました。これは使えると
いうような材料が満載であります。
 たとえば、次のようなことを初めて知りました。
「樫原雅春さんは、私の中学校時代の家庭教師だった。私の友人でも、そのことを知る
人は案外に少い。・・・私は中学の四年生であり、彼は第一高等学校の一年生か二年生
だった。彼は日本浪漫派の心酔者であり、私を保田与重郎や芳賀檀の家へ連れてゆく
こともあった。・・その関係で太宰治を知るようになった。戦争末期に、魅力のある
若い作家は太宰治一人しかいなかった。・・
 私は、あきらかに樫原さんの強い影響を受けた。私も激昂仮面になってしまったようだ。
 激昂仮面とは怒りっぽい人である。妥協しない人である。」
 樫原雅春さんは、文芸春秋新社の常務であった人で、「オール読物」の編集長をつと
めていた人です。後年にこのように有名になる人と十代の半ばにであって影響を受け、
作家になってからは、むしろ距離をおくようになったとあります。こうした距離の
取り方が山口瞳さんらしいところでありましょうか。
 文芸春秋社の編集者、豊田健次さん(もちろんまだ健在)もあちこちに登場します。
向田邦子さん、野呂邦暢さんとの関わりで、豊田さんが登場すると、これは豊田さんが
書いた文春新書を違った角度から描いていることで、たいへん参考になることです。