里見とんという筆名2 

 里見とんさんのお父さんは明治の官僚で家柄はよく、学習院ではお仲間と雑誌「白樺」の
メンバーとなるのですが、子供のときから世の中に役にたつ人物にはなるまいと決めていた
ようです。
 親からすれば親子の縁をきりたいというような存在でありますが、こうした生き方も
何十年も続けば、それはそれで評価されることになりまして、59年には文化勲章を受章
することになります。59年くらいの社会というのは、いまよりもずっと寛容であったという
ことが、この受章からも推測することができます。
 近年に、このような生き方をつらぬこうとしたら生き残ることができるのでしょうか。
 岩波文庫「里見とん随筆選」は、比較的容易に里見とんの文章に接することができて
ありがたい一冊ですが、そのなかに、次の文章がありました。

「新聞の三面記事などで見ると、近頃の世の中は、きわだって理不尽な事件が多くなって
来ている。めちゃくちゃな世の中だ。そんな気がする。臆病者の私は、カフェーなどへは
うっかり踏み込めない、と思い、また事実めったに踏み込んだことがない。・・・・
 何しろ、人心の険悪さだけからでも、東京住居はいやだ。強盗、殺傷、脅迫、凌辱、
自殺、おまけに交通事故、・・不安というほどでもないが、今後ますます住み良い日本では
なくなって行きそうな気がする。」 ( 大正14年8月 文芸春秋 )
 自戒三条という文章の一部ですが、これが書かれたのはいまから83年も昔であるという
のが、信じられないのであります。
 その後に里見さんが住むことになった鎌倉市が、このような「人心の険悪さ」から逃れる
ことができたのかと思いますが、交通事故も含めて、現在の社会病理となっている現象は、
このような昔からあったのでしたか。
 文章を残すことの意味には、このような世間の事情を後世に伝えるということにも
あるのでしょう。