回り道と寄り道をして、林哲夫さんが第3期「舢板」第4号「保昌正夫追悼特集」に
寄せた文章「さらば、父たち」にたどりつきました。
この特集を掲載した号は、例外的に早くに品切となったということですから、これの
表紙を、再度掲げることにいたしましょう。
林哲夫さんの「さらば 父たち」は、武蔵野美術大学で「文学」への眼を開いて
いただた、いわば文学の父「保昌正夫先生」、保昌先生より二カ月早くになくなった
「ブリコラージュが得意であった昔かたぎの農夫の父」をあわせて追悼するもので
すが、保昌先生が、林哲夫さんにとってどのような影響を与えてくれていたかを再確認
させる触媒のようなやくわりで松本八郎さんが登場します。
知的エリートの多くは伝説的な早熟なこども時代をすごして人がいて、立花隆や、
四方田犬彦などのものをみますと、うそだろうとしか思えないのですが、それとくら
べると、今の林哲夫さんの活動から見ますと、次のようなくだりを読むと、これも
うそだろうと思ってしまいます。
「(武蔵野美術大学在学)当時、こちらの頭のなかには文学のブの字もなかった。
今でもさほど文学しているつもりはないが、当時はゼロに近かった。恥ずかしながら、
大学四年間に買った唯一の新刊文芸書が『限りなく透明に近いブルー』の後刷だった
ことを告白しておく。」
これって、相当に恥ずかしいことで、いまだから言えることでありまして、蘊蓄斎と
自称するからこそ可能なことです。当方は、村上龍とはほぼ同年で、同じように地方
都市で高校生活をおくっていましたが、彼のように高校でバリケードを築いて、学校と
対立することもなしでありました。
70年ころの当時の「ニューミュージックマガジン」の読者投稿のところに、「佐世保
のムムイマリノ」というような筆名でちょっとくさい文章をのせているのがいて、
それが村上龍でありました。たしか、そのあともう一回、こんどは村上という名前が
でたように思いますがのってました。当方もたった一度だけ、この投稿欄にはがきを
おくって採用されたことがありますので、けっこうこの投稿欄は気になっていたので
しょう。
こんなのがいるのかと思ってまもなく、かれが芥川賞受賞とのことを知りました。
それだけでありますが、当時から地味な小説が好みであった当方は、村上の小説は
ずっと読むこともなしで、きていました。
( この林哲夫さんの「さらば、父たち」について、もうすこし触れたいのですが、
明日からは旅行にでますので、話題を転じることになります。)