第二期「舢板」は、何号まででたのでしょうか。先日にでてきたのは第10号で
2000年8月刊行でした。
これからまもなく、第三期の企画が動き出すようです。第三期の最初は2002年
3月刊行とありますが、これまで松本八郎さんの個人誌であった「舢板」は、これ
までとは違った運営となります。
「小誌『舢板』は、第三期から準同人制によって運営されています。そのため、
その製作費用は各寄稿者からの分担金によって発行されます。よって、少しでも
執筆者の負担を軽くするためにも、多くの方々に維持会員になっていただきたく、
何卒、ご理解とご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。」
第一期の「舢板」から、ずっと定期購読をすすめるお手紙をいただいていたの
ですが、こちらの懐状況がよくなかったせいもあって、ずっと定期購読することが
できずで、ありまして、小沢信男さんが寄稿されたときに、いただいておりました。
第三期になりまして、南陀楼綾繁さんを聞き手とする「小沢信男一代記」が連載
されるによって、はじめてほぼ定期読者となりました。これは版元に直接注文する
のではなく、京都の知人に三月書房の店頭で購入して、送ってもらっていたもの
です。(最初の何回かは、小沢信男さんにいただいていたのですが。)
第三期のものでは、この号のみが売り切れとなったようです。
この号は、「舢板」と「EDI」の「羅針盤」であった保昌正夫さんの追悼号となり
ますが、松本八郎さんの後記には、次のようにありました。
「今号は、小誌同人(小社顧問)の保昌正夫先生が急逝されましたため、急遽「追悼
特集」に切り替えました。・・・ご逝去の報に接しましたのは、折しも小誌原稿締め
切り日直前のこと。大慌てで同人をはじめ、生前の先生とご交際があったと承知して
いる方々に、ご逝去のお知らせと追悼文のご依頼をしましたところ、入稿までの
僅かな執筆時間にもかかわらず、二十八名もの皆さまから名文、玉稿の寄稿を受け
ました。」
松本さんと保昌先生のつながりはと思っていましたら、武蔵野美術大学で松本
さんが専任講師に呼び戻されたときに、国文の教授に保昌先生がいらして、教授会
が遅くなったときなど学校側が手配した保昌先生のためのハイヤーに便乗させて
いただいたことによってできたとありました。