本日の拾い読み 6

 篠田一士さんが編集した「東西文芸論集」を話題としています。それにおさめられ
ているエッセイの一部タイトルを昨日に転記しましたが、70年くらいになってから、
知られるようになったベンヤミンの「パリ 十九世紀の首都」が、このようなところ
で訳出されていたということに驚きました。クルティウスについてもですが、この
時代のほうが良く読まれていたのでしょうか。
 ヨーロッパというくくりで、中村光夫ベンヤミンヴァレリー、クルティウス
花田清輝という書き手を登場させるというのは、なかなかスリルがありますが、
最近では、これじゃアピールしないのでしょうね。
 おう外の「空車」が登場するのは、日本というくくりにおいてです。ここに
登場するのは、次の八本。
 近代日本人の発想の諸型式   伊藤整
 日本の橋           保田与重郎
 江戸人の発想法について    石川淳
 俳句の世界          山本健吉
 源氏物語           中村真一郎
 私小説の二律背反       平野謙
 時代閉塞の現状        石川啄木
 空車             森おう外
 
 どれもみな古典となっているようなものばかりであります。
 篠田一士さんは、明治以降の日本文学の源流の一つとなったヨーロッパ文学と日
本文学の伝統の混じり合いを文学者のなかに見ていて、その代表的な文人である
おう外の「空車」という文章に読み取っているようです。
「明治以降、すぐれた文学者はひとしくヨーロッパの文学への接近を行ったが、
それはあくまで接近にとどまり、彼ら自身がつくりだしたものは、ヨーロッパ
文学の伝統ともちがい、また同時に、日本のいわゆる伝統的な文学ともちがった
ものである。
 手近な一例をあげれば、このアンソロジーに収められた森おう外の『空車』とい
いう短いエッセイがそれである。」 
「文学論的要素がまったくない、この短いエッセイをわざわざここにえらんだの
は、第一にそこにいぶし銀のように輝く精妙な言葉のゆえであり、また、人目を
うばう小説的結構も、あるいは非日常的な、魅惑に満ちたイメージや音楽を用い
ないエッセイという形式がもっとも純粋な状態において実現されているためだが、
もう少し率直にいうならば、エッセイというものに対して、なにか思想といった
ものをつかめば、言葉はたんなる思想表現の道具にすぎないという、おそろしく
プラグマティックな読書法が今日横行していることへの抗毒素としてこのおう外
のエッセイがここで是非とも必要だとぼくは考えるのである。」
 おう外の「空車」(むなぐるま)は、極めて短い文章ですから、見つかりさえ
すれば読むのはたいへんではありませんが、丸谷才一さんが「文学のレッスン」
でいっていますが、「なにを論じているのか僕にはわからないと思っていた。」
とありますので、判らなくとも悲観することはないというのがよろしいこと。
丸谷さんは、篠田一士は「純粋散文」といっているとありますが、これは上に
引いたところの「エッセイという形式がもっとも純粋な状態において実現」と
いうところをさすようであります。(それとも、篠田さんは、まだほかの
アンソロジーに収録をしていますでしょうか。)