和菓子の日 2

 「和菓子屋の息子」と、小林信彦さんは自らのことをいっていますが、生家で
ある立花屋菓子店は、小林信彦さんが生まれたころは、入婿した祖父が八代目の
当主を勤め職人も20人以上を抱える大店であったとのことです。
 世が世であれば小林さんは、十代目を継がなくてはいけないのですが、そうなら
ずに済んだのは皮肉にも戦争のせいでもありました。
 祖父である八代目は菓子職人として力があっただけでなく、事業家としてもやり手
であったようです。
「 川開きに群衆が殺到して、両国橋の南側の欄干が落ちたのは、その年の八月十日
夜である。由松(祖父のこと)は忙しくて見物に行けなかった。手洗いを借りるため
に、わずかな菓子を求める客も多く、家の奥までが騒然としていた。・・
 こうした人出が、この土地では、まだまだ続くに違いなかった。そうであれば、
商売の方法はいくらでも考えられる。今までのは小手調べだ。
 紅白の大福と切山椒を売るような商法について、後見人があれこれと批判している
のを耳にしている。要するに垢抜けないというのだが、彼は<商売>とはそういう
ものだと割り切っている。商品を売りたいのかどうか判らぬような取り澄ました態度
を彼は好まなかった。」
 この引用は、「日本橋バビロン」からですが、小林信彦さんは、この祖父の一生を
小説にしようとして、ずいぶんと調べたとあります。(結局は、作品にはならずでし
たが。)
 この立花屋のお得意様には、「三越花柳界、相撲茶屋、問屋街」とあったほか、
「多角経営でタクシー会社をやって、ガソリンスタンドまで経営していた。」とあり
ます。これが関東大震災前の状況です。