和菓子の日 4

 小林信彦さんの父上である立花屋九代目当主は、もともと和菓子職人の親方として
育てられたわけではないのです。はいからで遊びが好き、エンジニアに憧れていたと
あります。
「 彼はオースティンの黒いワゴンを買った。本当はワゴンでない方がいいのだが、
商品の配達を名目にしたので、ワゴン車で我慢するしかなかった。その代り、自分で
修理すをしますから、と父親に説明した。和菓子屋がすきでもないのに、あえて、別
な仕事につくと主張しないのだから、祖父も納得するしかなかった。」
 八代も続いた老舗では、そののれんをどのように引き継ぐかが大きな課題となり
ます。家業をついてくれるのであれば、菓子をつくることができなくとも、帳簿を
見ることができればそれでよしということになったようです。
 小林信彦さんが生まれた頃は、「この家は、十代目までは、遊んでいても暮せる
はずだから、と冗談めかして言うものがいた。」とあります。十代目予定者は小林
信彦さんでありましたが、十代目が生まれることはありませんでした。
 戦争のために、元からの店は焼け落ち、新しい普請で店は作られるのですが、
その店は、次のようなものでした。
「 店は開いたが、ひいき目にも特色があるとは見えなかった。店内はおよそ殺風
景で、テックスという材料の茶色い壁に、これだけは九代目にふさわしい達筆で、
<葛ざくら><栗饅頭>などと記した色紙が貼られた。父は製菓の技術がないので、
家で作っていたのは最中ぐらいだったと思う。
 大空襲から三年目で戦時を生きのびたわが家の職人たちは、いっせいに家業を開始
していた。わが家に電話がなくても、彼らはときどき顔を出し、各々特徴ある和菓子
を私の家まで届けてくれた。」
 かって、従業員が三十人もいたという「立花屋」さんは店がすっかり小さくなった
ことで、職人さんたちが一カ所で菓子作りをすることはできなくなり、ほとんど
暖簾わけ状態とならざるを得なかったわけです。
「 わが家が生菓子を仕入れる工場は限られていて、浅草馬道にあった。配達が間
にあわない時、とりに行くのは私の仕事であり、父はそのために新しい自転車を
買った。」
 かって黒いオースティンのワゴンであった(昭和初年のこと)が自転車となるの
ですから、これでも没落していることがうかがえます。
「 私は自分を<若旦那>などと考えたことはない。いつ店を畳むかわからない、
小さな和菓子やの長男というに過ぎず、先方は店構えを立派にし、工場も充実させ
ているようだった。・・和菓子屋の景気は悪くなかった。
ただし、米軍の占領下なので、洋菓子の方が勢いがあり、気の利いた菓子屋は、
長男を和菓子屋の終業に出し、次男を数すくない洋菓子店で終業させていた。」
 今に至る和菓子の衰退というのは、この時代に端を発するようであります。
 小林兄弟は、二人とも菓子屋となることもなく、立花屋は廃業となるのですが、
最終的な処理としては、次のようになったとのことです。
「 暖簾は宙に浮いたままだった。やがて、ゆずって貰えないかという申し出が
あった。その人物は祖父の方の親戚で、祖父の技術を受けついでいた。」