ノアの本 2

 大槻鉄男さんが愛知大学に職を得て、専任講師で赴任したのは32歳くらい
のことです、その時に、林ヒロシさんは19歳くらいでしょうか。ちょうど良い
キャリアと年齢差であるように思います。
 当方は学生時代に、あまり学校にいかなかったせいもあって、授業を受けた
先生はいるのですが、個人的にも、私淑した先生というのがおりませんでした。
四方田犬彦さんの著書「先生とわたし」を読みましたら、当方とほぼ同じ時代
にもこのようなことがあったのだなと、まるで別世界のように感じました。
 大槻鉄男さんのことを知るにいたったのは、大学時代の友人がさかんに
セリーヌの小説はすごいと言っていたからであります。彼がセリーヌを読んで
いたのかどうかわかりませんが、ちょうどその頃に中公の文学全集の一冊に
セリーヌ」がはいって、これの翻訳を生田耕筰さんと大槻さんが担当して
いたからであります。(「夜の果ての旅」ですが、中公文庫にもはいっていま
すが、全集本は共訳とありますが、文庫は生田さんの単独訳となっているので
しょうか。)
 その友人は、フランス哲学をやるのだといって、指導にあたっていたドイツ
哲学専攻の助教授を困らせていました。その先生は、それじゃフランス文化に
詳しいかっての同僚に相談するからいってみようとといって、他大学の教師の
ところにいったとのことです。それが、山田稔さんのところでして、その後、
指導してくれた助教授に連れられて山田稔さんの自宅へもお邪魔して夕食を
ご馳走になったことがあるということもいってました。これまで、そんな話を
聞いたことがなしでありました。
 林ヒロシさんの「臘梅の記」にも、似たような話題がのっています。
「 冬休みを待ちわびた。大槻先生に遊びに行ってようかどうか電話をする。
『どうぞいつ来ますか』『今から行っていいですか』・・・
 やがて山田稔さんが広島の牡蠣を土産に訪れた。『やあ』と片手をあげ、
着馴れたレインコートを脱ぐ。
 居間に引いたガスコンロに薬缶をかけ、大槻先生は坐ったまま銚子に燗を
つける。掘りごたつの上にはすでに肴がいく皿も並んでいたが・・・
 午前零時を回って、山田さんが『それじゃあ、ぼくは帰る』と腰をあげた。
酒は二升ほどからに空になっている。『そこまでお送りします』と大槻先生。」