河出書房の編集者 藤田三男さんは榛地和(しんち かず)の名前で本の装幀も
しておられます。「榛地和装本」は、藤田さんの装幀したものをまとめ、それへの
文章をつけたものです。榛地和がかかわったもので、小生がなじんだものは、すく
なくて、わずかに足立巻一さんの「やちまた」上下があるのみです。
たまたま後年になってから安く入手した小説集が「榛地和」本であったことが
わかったのでありますが、それが庄野潤三さんのものでありました。これは昨日に
ふれた「旅人の喜び」ではなくて、「おもちゃ屋」1974(昭和49)年 河出書房刊
です。
この頃の文芸書は、きちんと箱入りで、本のほうは芥子色のクロース装で、同色の
しおりがついています。箱はうぐいす色で、表面 右にすっきり 庄野潤三
おもちゃ屋とあり、左には鳥の小口版画がありました。この版画は、「平塚運一」氏に
よるものとのことですが、平塚氏の名前はこの本のどこにも記されていないのでした。
このことについての藤田三男さんの反省も含めた文章からの引用です。
「『おもちゃ屋』は『文藝』の福島紀幸さんが担当し、単行本は私が担当した。
カットに小口木版の鳥を使いたいと考え、ベテランの美術記者に相談すると、
平塚運一氏の版画を見せてくれた。不勉強な私は、平塚運一氏のことを知らなかった
が、経歴によれば近代日本版画の草分け的存在で、棟方志功氏などと同じ時代を切り
拓いた重鎮であった。
『平塚氏は長くアメリカを拠点として仕事をしていたので、日本へ消息の届かぬときも
あり、すでに亡くなっているかもしれない』と、ベテランの美術記者が考えたのも
無理のないことであったかもしれない。装本に、平塚さんの版画を許可のないまま使用
し刊行した。庄野さんにもその旨をお話しした。
数日後の日曜日に、自宅に庄野さんから電話が掛かってきた。今日新聞の広告を見て
いると、三越本店で平塚運一さんの帰朝記念展が開かれている、という。私はこれから
お詫びに伺うので、あなたも◯時に三越本店会場前にきてほしい、とのことである。
もちろん大慌てで急行した。平塚さんのお嬢さんは、父のアメリカ住いも◯十年になり
ますから、疾うにこの世の者でないと思われてもいたし方のないことです、と当方の落
度を庇ってくれた。その間、庄野さんは、例のきりっとした挙措動作で頭を下げ、誠実
な口調で、ただお詫びを言った。
非は編集者(私)、出版社にあり、庄野さんには何の非もないのだが、庄野さんの誠
実さとこの電撃的な対応に心底、自分の杜撰さを恥じ、申し訳なく思った。」
小説などは著作権を管理している組織がありますので、そこに問い合わせをすると、
著作権者の状態がどうなっているのか、わかるような仕組みになっていますが、絵画と
か版画などについては、どうなっているのでしょう。版画などの使用許諾を受けると
いうのはけっこう大変なことであるようです。