阪田寛夫全詩集を編む 8

 阪田寛夫さんは、あの世代にしてはまれなほど家庭の中に歌がありました。歌と
いってもクラシックではなく、賛美歌が中心であったようですが、極めて珍しい家庭に
育ったといえるでしょう。
そうした家族から、作曲家 大中恩さんと 詩人 阪田寛夫さんがでてきました。
大中さんの父と阪田さんの母が姉弟というつながりです。
 音楽が好きであった阪田さんは、大学では音楽美学を専攻するのですが、途中で
転科して国文科を卒業し、大学を卒業して朝日放送にはいったのも、「音楽の仕事が
できることを期待して」と、自筆年譜に記しています。
学生の頃から同人誌に小説を発表したり、詩の習作を書いて三浦朱門にみてもらって
いたとありますが、今も読むことができる作品で一番初期のものは、「わたしの動物園」
にまとまる詩作品で、それは29歳のことです。
 その後、番組制作で「子どものための創作童謡」を放送する「ABCこどもの歌」と
いうものを作って、数多くの子どものプロデュースしています。
番組を作る側から童謡の詩を作る側になるのは、大中恩さんからの依頼を受けて「うた
のおばさん 松田トシ」さんのために「サッちゃん」を書いた時で、この時、阪田さん
は34歳でした。
 このあと、阪田さんは管理職となって番組制作の現場を離れ、1963年、38歳で会社を
退職し、このあと、童謡の収入だけで生活することになりました。会社をやめたのは、
ちょうど東京オリンピックの前年でありまして、会社にいれば、これから本格的な高度
成長の恩恵を受けるのでありますが、あえてそれよりも不安定な創作の道へ踏み出す
ことになったわけです。(ひょっとすると、ボツになった作品の多くは、このような
時期に書かれているのかもしれません。)
 このような背景があって、阪田さんは大中恩さんから「音楽がわかる詩人」といわれ、
中田喜直さんからは「作曲できる詩として第一級、音楽を理解している数少い詩人」と
評されるのでした。(ともに「伊藤英治さんのあとがき」からの引用)