本作りの苦労3

 本日も谷沢永一「紙つぶて」文藝春秋社から話題をいただきます。
 先日に引き続きで、前金をあつめて本がでないというものです。
秋山清は昭和36年6月、自宅に『プロレタリア詩研究会』なるものを設置し、広く
案内状をくばって、雑誌の予約金12冊分、1200円を募った。11月には、会費
納入者に対して挨拶状を発想し、準備不足のため雑誌刊行がおくれたことを謝し、
37年1月には創刊号を出すと約し、内容予告をかかげ、ついでにすでに納めた者に
対してまでも会費の値上げを宣言した。
 だが、以来今日にいたるまで、雑誌『プロレタリア詩研究』は一冊もでていない。
たまりかねて・・問い合わせたところ、秋山清は、雑誌が『その後同人の都合で
中止のやむなきに至り、目下私が前金そのたについて清算にあたっています』から、
しばらく待ってほしい、と答えた。しかしそれ以後も会費は返金されず、その使途は
不明である。・・秋山清の批判精神は立派だが、他者への批判はおのれの身を清くして
行うべきである。」1969年
 谷沢永一さんは、歯に衣きせずの人でありますが、こどもがいたりすると、だれかに
世話になってしまっていいたいことがいえなくなるので、こどもは持たないという
ようなことをいっているのを目にしたことがあります。「紙つぶて 自作自注最終版」
の表紙には、奥様の手による薄田泣菫の詩が掲げられていますが、奥様のサポートが
あって、あの仕事が成立したということでしょうか。
 秋山清さんの著作は、ほとんどなじみがないのですが、この方については小沢信男
さんが「通りすぎた人々」でとりあげていました。
「 ある年、上野本牧亭思想の科学研究会の大忘年会があり、寄稿者のはしくれと
して満員の座敷にすわっていると、ひょいひょい人の膝をまたいで秋山清があらわ
れた。
薄い雑誌をだしては『はい××円』。アナキズム系の運動誌だったか、一も二もなく
お払いすると、また膝をまたいで次の獲物へ。うーん、そうか、拡大運動は、かくも
わるびれず歯切れよくやるものなんだなあ。」
 そのむかしのアナキズムの活動家には「りゃくする」なんてことばがあったよう
ですが、案内状をくばって雑誌刊行を訴えたのが「りゃく」ではないでしょうが、
ほとんど自転車操業でしたでしょうから、その気はなくとも、結果は同じことであった
かもしれません。