中公新書の森

 中公新書が62年11月に創刊されて、この5月に刊行点数が2000点を超えたと
いうことです。当方が、中公新書を最初に購入したのは、何であったろうかと「中公
新書の森」の巻末にある2000点リストをながめています。これがでた時代には、
ほかにはどのような新書があったのかと思います。新書の形でシリーズのようになって
いたのは、光文社からのカッパブックスが有名でありました。講談社も新書をだして
いましたが、あまり目立たなかったように思います。三一新書というのもありまし
たが、ここは、会社ごとなくなってしまいましたですね。
 中公新書は、基本的なデザインがまったくかわらずで47年というのが立派です。
講談社新書は、小生の記憶に残っているだけでも数パターンを経ていまにいたって
います。老舗の岩波新書は、表紙の色(現在はカバー)が赤、青、黄色、赤と変化して
いますが、表紙フォーマットがそんなにかわっていませんので、新書としての統一性は
保たれているように思います。
 「中公新書の森 2000点のヴィリジアン」に寄せた安野光雅さんの文章には、
次のようにあります。
「『長く使われてきたマークがあるが、20周年を記念し、更なる前進のために、
目先を少し改めてみたい』という話をもってこられたのは、加納信雄さんだった。・・
 わたしの気分では、マークはいわば旗印だから、できるだけ変えないほうがいいと
思うが、実際にはどこの社のマークも時代の空気を読みながらすこしずつ変わっては
きている。」

 中公新書の装幀を手がけたのは、著名な建築家であった白井晟一さんでありました。
このマークもまた白井さんの手によるものです。思想家でもある建築家の白井さんは、
20歳の頃に、哲学者 戸坂潤に兄事し、哲学に対する関心を増幅させ、戸坂の紹介
京都大学の優れた美学者である深田康算の門を叩きますが、深田からは、「建築家に
なるなら、その技術はいつでも習得できる。大切なの、そのは内容であり、つまり
哲学である。」といわれ、これを終生大事にしていたとのことです。
 中央公論との関わりはどうしてかと思って白井晟一さんの年譜を見てみましたら、
32年モスクワへ香川重信(中央公論社特派使節)とともに、ひそかに出かけ、
約1年間滞在する( ロシア革命が起こってから15年後くらいのことです。)とあり
ますので、この香川さんがむすびつけたのでしょうか。
 帰国してからは、義兄の紹介で文化人との交流を深め、山本有三「真実一路」
(新潮社)の装幀をはじめて手がけるが、その後もこの方面での活躍は、中央公論社
社主・嶋中雄作の知遇を得たこともあり、おおいに続けられる。
 42年には嶋中邸の設計を行っていますが、この当時に明朝体活字デザインに独自の
工夫をこらしていたとあります。
 年譜の62年には、次のようにあります。
「白井の中央公論出版を中心とする書物の装幀は、相当な数に上るが、現在でもその
デザインが使われ、最も広く知られているの『中公新書』の装幀は、この年行われた
ものである。」 
 年譜は「建築文化」85年2月号の特集にあったものから引用しました。