編集工房ノアの本4

 編集工房ノアからでた宮川芙美子さんの「リレハンメルの灯」を見ていましたら、
石田郁夫さんについての「あちらこちら命がけ」という文章で眼がとまりました。
名前は知っている石田郁夫さんの文章は、60年代後半から70年代にかけて良く
雑誌等でみかけました。いくつか読んでいるはずですが、まとめて読んだことは
ありません。それにしても、いまどき石田郁夫さんについての文章を眼にすることが
できるとはです。
 昨日に引用した「新日本文学会」に石田さんの病状を問い合わせたときの、事務局に
つめていた人の答えが、いかにも事務的に「今の会と何の関係もありません」と冷たく
いったというところがすごいことです。
 そう思って、石田郁夫さんについて記している小沢信男さんの「通りすぎた人々」を
調べてみました。この「通りすぎた人々」(みすず書房)の帯には、つぎのように
あります。
「 新日本文学会とはなんだったのか。井上光晴小野二郎藤田省三ほかペーソス
豊かに描かれる追悼録から、戦後を代表する文学運動体の盛衰が浮かび上がる。」
 小沢信男さんが描く「石田郁夫」さんです。
「 石田郁夫は長身痩躯で、猫背で、横一文字に大きな口を、閉じる間もないおしゃ
べり屋で、気難しそうで気安かったが、すぎに親しくもならなかた。当時は私はまだ
酒をのまず、飲み屋の談論風発にも加わらず、用事がすめばさっさと帰った。・・・
文学運動家石田郁夫のテーゼ、つまり口癖のひとつが、批判があるなら陰口たたかず
面とむかって言え、またひとつは、運動は共同だ、使えるてのある奴は手を、足のある
奴は足を、頭のある奴は頭をだせ。ツノだせ、槍だせ。目玉だせ。
この石田に影響されたのは、若い文学学校生たちばかりでなかった。風にも絶えぬ
繊細青年だった私が、ときには人を人とも思わぬ憎まれ口さえたたく、中高年に化けた
のは、ひとえに悪友石田郁夫の感化によります。」
 小沢さんは、1927年生まれ、一方石田郁夫さんの1933年生まれであります
ので、小沢さんのほうが6歳年長となります。
「1970年代には、事務局長、編集長など、役割をぐるぐる回り持ちした。上げ潮に
のった石田郁夫はめざましかった。文学学校を横浜、千葉、埼玉とたてつづけに
開いて、軒並みに精華をあげた。・・彼のまわりには、つねに若者たちが群れていた。
・・・新日本文学会が、ある時期、某新左翼勢力に居座られた、という説が一部にある。
1980年代半ばの危機というより停滞期。いすわられても困惑しているだけの
甲斐性のないだれがのっとる気になどなるものか。案の定、元凶とみなされた石田
郁夫は、一気に身を引き、退会して無縁になった。さすがの引き際とみればみえた。」
「一気に身を引き、退会して無縁になった」のが、80年代の半ばとありまして、
宮川さんが新日本文学会へ問い合わせたのが、93年ですから、事務局を新左翼
乗っ取りさせた元凶として見られるので、あれば、文学界での事務局で好感もたれて
なくとも一向に不思議ではありません。