編集工房ノアの本3

 ノアの本、宮川芙美子さんの作品集「リレハンメルの灯」の帯には、次のように
あります。
「 乳児院に来る子どもたちの荒んだ状況、坂の下の食堂に集まる客たちの人生、
父母を看取る高齢化の痛切。レクイエム。人の風景。哀切の明かり。」
 
 最初から最後まで、これでありましたら、とっても辛くて手にしようという
気分にならないでしょうが、これ以外に「私と大阪文学学校」「げんげ忌回想」
「幻のブラザー軒」「あちらこちら命がけ」という文章がありまして、小生には
むしろこちらが楽しみとなりました。
 「あちらこちら命がけ」という文章は、いまではほとんど話題になることも
ない「石田郁夫」さんに関してのものです。一番活躍をしていた時でありましても
知名度はそんなに高くないことでして、なくなる頃には、すっかり忘れられて
いるような存在となっていました。
宮川さんには、そのことが残念でたまらないということのようです。
「 石田郁夫さんの活動は、1958年の日本共産党山村工作隊への参加に始まる。
新島におけるミサイル試射場反対闘争。その後、沖縄の反基地闘争、ヒロシマ
ナガサキ被爆者保証の裁判など、戦後日本の国家が吹き出したさまざまな矛盾と
最前線で対峙し、多くの優れたルポルタージュを残している。これら石田さんが
単身捨て身で書かれた著作物の多くは、これからこの国の未来に大変貴重な示唆を
含んでいると言える。・・
 彼は、同じ昭和8年生まれの川崎彰彦さんに、破格の親近感を抱いていたように
思う。そのことは、政治活動家であり、ルポライターでもあった石田郁夫さんが、
詩を書き小説を書く小沢信男さんや川崎彰彦さんに、そこにもう一人の自分のある
べき姿を投影させていたのではないだろうかと私には思えてくる。」
 この文章のタイトルになっている「あちらこちら命がけ」という言葉は、坂口
安吾のものだそうです。
「 石田郁夫さんの人生もそのようであった。まさしく、国中を駆け回り、雑兵の
まま生ある限り邁進し、ボロボロに傷つき、刀折れ矢つき果てていった。
 わたしはかって、石田さんの病状が知りたくて新日本文学会に電話をしたことが
ある。そのとき電話にでた男の人が事務局の人かどうかはわからない。だが、実に
事務的に、『確かに石田郁夫さんの名前は知っていますが、今は会とは何の関係も
ありません」と冷たくはねつけられたので、私は一瞬、ムッとした。石田さんが
書いていた、『無名の心まえに対する敬虔の念』は、心の片隅にでも忘れずに
新日本文学会の事務局員ならば持っていてほしいと思うのだ。」
 この文章が同人誌「黄色い潜水艦」に掲載となったのは93年11月ということ
ですから、これから「新日本文学会」が解散になるまえ10年以上もかかったと
いうことになります。
 石田郁夫さんについては、小沢信男さんが「通りすぎた人々」(みすず書房)の
なかでとりあげていました。