小沢信男著作 238

 田所泉さんによる「新日本文学史のための覚書」をのぞいてみますと、設立されてから
ずっと内部での論戦を続けています。いまではぴんとこな共産党内部の路線の違いの
あおりを受けたものもあり、いまの若い人々には、ほとんど理解できないことでしょう。
 小沢信男さんが行った解散提起(個人報告)からの引用です。
新日本文学会は、文学団体だけれど政治路線やら、明けても暮れても議論ばっかり、
創ることをしない。そういう批判がしょっちゅうありました。けれども、ほんとにそうな
のか。論戦派は声も身振りも大きくて目立ちはしましたがね。花田清輝は、創れ、創れ、
という人でした。一九七〇年に私は事務局長にならされて、役目柄、花田さんちへ行く
と、創れ、創れとハッパをかけられました。創作、創も作も、つくるだけれど、創とは
御承知のように未だかってないものを新しく作りだすことなんだよね。そんなむずかしい
ことを、しょっちゅうやっていられますか。共同制作をやれ、と言われて逃げ帰って、
おそろしくて当分よりつかないことにしたり。」
 「論戦派は、声も身振りも大きくて目立ち」とありますが、たとえば、そうのような
お一人 武井昭夫さんは、ある時代のこうした議論を総括して、次のように記していま
す。1966年6月号「新日本文学」に寄せた「わが文学運動組織の現状と問題点」から引
用です。
「前大会の前後を頂点として、わが会の内部には、非文学的な、低次元の対立・抗争は
去りました。すでに述べましたように、日本民主主義文学同盟が結成され、従来その要因
をなしていた部分がそこに分離していったからです。それは、重ねて強調しますが、文学
運動の自主性を確立し、創造運動の実質を強化する上で、大きなプラスだったと言えま
す。
しかし、実情を冷静にみるならば、その後の会活動には昂揚と充実とではなく、一種の
弛緩と停滞が生みだされてきたように思えてなりません。私たちはプラスを生かして
新たな前進にむかっているつもりで、実は成果へのもたれかかりに陥った面はなかったで
しょうか。」
 論戦のエネルギーは、文学運動を推進するという立場からの発言であろうかと思います
が、このあとに武井昭夫さんは、新日本文学会内部に「活動家集団 思想運動」を結成し
ようとして、うまくいかず、会とは別に組織をつくり、会を離れることになるのでした。
 小沢信男さんが、「事務局長にならされた」のは、ちょうどその時期のことでした。