小沢信男著作 239

 田所泉さんによる「新日本文学<史>のための覚書」に、小沢さんはどういう登場の
仕方をするかを見ています。書き手としての小沢さんというよりも文学運動家としての
小沢さんであります。 
 小沢信男さんは「事務局長にならされた」と発言していますが、この背景には、次の
ようなことがありました。
 田所泉さんの「覚書」からの引用です。
「1970年五月に開かれた会の第十四回大会は、出席者がこれまでよりは少人数で、幹事
会報告も一つだけ。・・討論から今後の方向が導き出されるという方向には進まなかっ
た。一言でいうなら低調だった。
 困難は、大会で選挙された五一人の幹事から一七人の常任幹事と、その中から事務局
長・編集長を選ぶ過程で表面化した。それまでの中心的な働き手たちの多数が(「思想
運動」の中心メンバーでもあったのだが)常任幹事に就くことを辞退したからである。
事務局長には難航の末、小沢にみなが頼み込み、編集長は小野二郎が『副編集長ならば』
と固辞をつづけ、長谷川四郎が『おれが編集長をやるよ。だが家で寝てるよ。』と引き
取ってようやく人事が決まる、という運びだった。」
 武井昭夫さんは、文学運動のリーダーの一人であって、大変影響力が強かったのです。
小沢信男さんも、武井昭夫さんが推薦人となって「新日本文学会」に入会したのでした。
 SUREの「小沢信男さん、あなたは・・」から、武井昭夫さんに導かれたくだりを引用。
「『江古田文学』という雑誌があって、そこに『新東京感傷散歩』という散文をはじめて
書いて出した。そしたらある日、『江古田文学』あてにハガキがきていて、武井昭夫さん
からなんだよ。あなたの作品を読んだって。で、花田さんも褒めていて、われわれの若い
世代に花田さんが注目しているというのはうれしいから、とにかく『新日本文学』に
遊びに来いというわけだ。で、喜んで遊びにいったわけよ。・・それでこうなった。
 その後もね、僕にとって、ようするに武井さんを介してです。
 記録芸術の会がはじまるときだって、武井さんに呼ばれて、ああそうですかって。
でも会が始まったときには武井さんはいないんだよね。」
 小沢さんが、「事務局長にならされた」のは、武井さん率いる「思想運動」のメンバー
が、誰も役を引き受けなかったからでありますね。