小沢信男著作 235

 小沢信男さんの「通り過ぎた人々」に導かれて田所泉さんの足跡をおっています。
田所さんには、何冊かの著作がありますが、亡くなってから刊行されたのは、次の
ものとなります。

 この本の巻末に、「本書ができるまで 巻末報告」という文章が掲載されています。
「田所泉作品集編纂委員会を代表して」ということで、小沢信男さんの手による文章です。
この文章から引用いたします。
「本書をつくる端緒は2006年四月二十日、堀ノ内葬祭場の控え室で、田所泉の遺体が荼
毘にふされるのを待つあいだに生まれました。都立西高同窓のお二人に、小沢信男
たずねた。学生時代の同人誌の類がのこっていますか。ありますとも。では、かの幻の
名作の『出廷拒否』も『駒場寮ピケ』も。・・また遺族の照子夫人には、未発表の草稿の
有無をたずねました。
 ほどなく、・・同人誌『ひとで』その他に若き日の田所泉が書いた小説・評論・詩編
束が、小沢の許にどっと届いた。・・・
 そこで玉井五一、田所新、小沢の三名が会合し、このときから本書の構想はスタート
しました。
 玉井氏は創樹社編集長として、田所泉の著書二冊を刊行し、社が解散後も、つづく
二冊を風濤社へ斡旋した。・・本書の制作を、風濤社と組んでうけもつことは、玉井五一
の運命というべきでしょう。
 この段階で編纂委員会を構成しました。田所新、都立西二人、玉井五一小沢信男に、
佐藤修、原田克子を加えて七名とした。佐藤修は、解散を決めたあとの弔い合戦の
新日本文学』編集長の鎌田慧を扶けて、実務を担った男です。」
 玉井五一さんは、長谷川四郎さんの「知恵の悲しみ」や小沢さんの「若きマチュウの
悩み」を担当した創樹社の編集長でありました。当方にとっては、とても恩を感じて
いる編集者です。
 玉井五一さんにとって運命というのであれば、小沢信男さんにとってもそうなので
ありましょう。
「通り過ぎた人々」を連載していた時期と、この「楠ノ木考」の編纂時期は重なります。
みすずから単行本となった時に、田所泉さんの章には「付記」として、「楠ノ木考」が
刊行されたことがアナウンスされていました。
「通り過ぎた人々」の「田所泉さん」の最後は、小沢さんの句で終わっています。
  引鶴やいま殿の陣の上
 この句の前のところには、「彼が書くべかりし『三国志』をおもえば、あまたの英雄
豪傑に立ちまじって細面の田所泉がいるような気がする。沈着、一をもってこれを貫い
た男。」とあります。引鶴は、もちろん田所さんのことですね。
しんがりの陣の上」、敗軍の将という感じですが、全員無事に撤退できるように陣の
上であたりを見まわしているというところでしょうか。
 この句は、「通り過ぎた人々」の表紙に、小沢さんの自筆で描かれています。
10月31日に掲載した表紙写真でもみることができます。