SUREの本 3

 編集グループ「SURE」の最新刊である鶴見俊輔さんの「悼詞」には、これまで
鶴見さんが発表された追悼文がまとめられています。巻末には、初出一覧があります
ので、これは参考になることです。自分が購読している雑誌とか新聞に掲載された
ものは、読んでいるはずですが、すっかり忘れているということがわかります。
この初出のところに、収録された単行本の書名ものっていましたら、もっとよかった
のにと思うのでした。
 この「悼詞」は、おくられた人が著名であるよりも、それほど有名でない人のほうが
興味深いことです。
 ぱらぱらと見たなかで、小生の目がとまったのは、内山尚三さんという人について
の悼詞でした。内山尚三さんは、民法学者さんでありますが、鶴見俊輔さんの妹さんの
ご主人にあたる人であったとのことです。
「婚約がすすんだときに、父親の鶴見祐輔が漢字の上での相性に注目して・・・
鶴見という名字をやめて、内山章子となることによって、完全にこう左右対称、裏表
どこからみても同じという、性格を増やせるわけで、とてもいいことだというふうに
いっていました。」( ご主人にあたる内山尚三さんも、完全に左右対称で、ご夫婦
二人ともが対象となるのは珍しいでしょうか。そういえば、里見とんさんという
小説家も、本名は山内英夫さんで、左右対称であるとどこかで書いていたのをみた
ことがあります。)
 この内山尚三さんに興味をもったのは、次のくだりを見たからであります。
「法政大学の民法の教授として長く勤められて、さらには定年後には、札幌大学
学長になって、その札幌大学で人材を集めて、やがて新しいものにしよう、という
抱負があったようです。後任の学長に山口昌男さんがなることを求め、その山口さんの
指導下に、非常に冒険的な事業が次々とでていくのをみて、やはり内山さんも、なか
なかおもしろい手をうったな、と私は感心しております。」

 札幌大学に新しい学部をつくるということで、山口昌男さんが静岡から招かれて
文化学部をたちあげ、そのあとに学長になったのですが、あまりに冒険的すぎた
ようで、他学部から反発を受け、山口昌男さんは、大学を追われるような形で離れ
ました。短かった山口時代の生みの親が鶴見俊輔さんの縁者であったとは、まったく
知りませんでした。