訃報 山口昌男さん

 本日、山下達郎さんの「サンディ・ソングブック」が終わったあとに続くニュース
を聴いていましたら、山口昌男さんが都内の病院で亡くなったとの報道がありました。
 地元の新聞社が提供するラジオニュースでありますので、山口昌男さんの功績も簡に
して要を得ておりました。
 このような日のために、早々に山口昌男さんは「文章による自画像」(大塚信一さん
による)を記して発表されています。これは文藝春秋社から刊行の「私の死亡記事」に
収録のものとなりますが、いまは山口昌男さんの「ラビリンス」(国書刊行会)に再録
され、大塚信一さんの「山口昌男の手紙」の終章の最後のところに引用されています。
 発表されたのは2000年12月とあります。これの全文を紹介したいところであります
が、それはよしましょう。
 この文章を引用している大塚信一さんは「本稿執筆後の札幌大学学長就任等について
は、当然触れられていないが、本質的に変わるところはないと思う」と記しています。
山口昌男さんが触れていなくて、一番大きな出来事は文化功労者となったことであり
ますが、大塚信一さんは、このことをどのように受け止められたことでしょう。
 山口昌男さんによる「文章による自画像」は、「インドネシアの山中で」という
タイトルで、「インドネシア・ブル島の山中海抜七百メートルの地点で土地の人間に
よって倒れているところを発見される。死因は心不全と見られる。」と書かれていま
す。まだ病に倒れる前の文章でありますので、ノマドな生活で亡くなることを理想と
していたのでしょう。
「二十世紀の世紀末に、いかがわしいと言われながらも、旺盛なる知的好奇心を持ち、
前世紀の遺物である書物の山に囲まれ、・・・ブル島へは1974〜75年調査に赴いた
とき、残してきた書物を探しに行ったらしい。パソコンも所有していなかったので、
覚悟の自殺と見られる。」
 「残してきた書物」というのは、どういうものであったのでしょう。調査のための
資料として持参をしたものか、それとも次の仕事のための資料であるのか、はたまた
調査の日々をなぐさめたインドネシアでしか入手できないコミックスとかを探しに
いったものか。