神は細部に宿り給う

 ヴァールブルグ著「蛇儀礼岩波文庫を手にする人は、どのようにしてこの本に
出会いしかです。文化人類学的な関心から、アメリカインディアンへの関心から、
そしてヴァールブルグ研究所への関心から等々でありますが、小生の場合は、
なんといっても、ヴァールブルグ研究所の端緒をつくった人であるということからで
あります。ほかのヴァールブルグ研究所のメンバーの著書は、翻訳がでていたり
して容易に手にすることはできましたが、ヴァールブルグのものは、これまでに
でていたものの、簡単に手にすることはできなかったように思います。
それだけに、ヴァールブルグの著作が突然岩波文庫にはいったのには驚きました。
 ヴァールブルグ研究所を、日本の一般の読者に知らしめたのは山口昌男著「本の
神話学」でありますし、アビ・ヴァールブルグの言葉として広く知られるように
なった「神は細部に宿り給う」は、ヴァールブルグ研究所とともに、林達夫さんの
「思想のドラマツルギー」においてでありました。

思想のドラマトゥルギー (平凡社ライブラリー)

思想のドラマトゥルギー (平凡社ライブラリー)

 「蛇儀礼」の翻訳者であります三島憲一さんが、この両書を読んでいないとは思い
がたいのでありますが、この文庫の訳者解説で、林達夫さんにも山口昌男さんにも
言及がなくて、この二人の存在を抜きにして、アビ・ヴァールブルグについて語る
ことができると思っていなかった小生は、少なからず驚いたのであります。
 三島憲一さんは、ドイツ哲学がご専門でありますし、ヴァールブルグに関心をもった
のは、ヴァールブルグがニーチェの先生でもあるボン大学教授ウーゼナーという人に
教えを受け、大きな影響を受けたということによるニーチェつながりのようであり
ますからして、ニーチェからのアプローチであれば、林さん、山口さんに言及され
なくともしょうがないかなと思うのであります。
この本を手にして、まず解説を読んで、小生のような感想を抱く人は、けっこう多く
いるのではないかと思うのでありました。
 最近は「トリヴィア」という言葉が、テレビ番組のタイトルに使われたりしました
ので、これが細部へのこだわりということを意味しているというのは、広く知られる
ようになりましたが、71年くらいに「トリヴィアリズム」という言葉を「思想の
ドラマツルギー」のなかの林達夫さんの発言で目にした時には、その意味するところが
ぴんとこないのでありました。 

 久野収さんが「狩野亨吉やその学統を継ぐ森銑三さんなんかのやり方は、歴史学
以前のもの好きの遊びとしてけなされてしまう。しかし狩野亨吉の書誌学的訓練が、
歴史の中に埋もれていた安藤昌益や本多利明を発見させたことを忘れてはならない。」
という発言を受けて、林達夫さんが次のように語っています。
「 書誌学から精神史的展望をひらくという、君のその指摘は賛成だな。・・・
 基本は同じでも、在来のとは違うビブリオグラフィーから出発してね。そうなると
 全く新しいビブリオグラフィーノ誕生だ!文献の渉猟の仕方が全く違ってくる。・・
  それからもう一つは『(林達夫)研究ノート』にあったトリヴィアリズムという
 ことだと思う。生松敬三氏がそれをいってくれたのはよかったね。それからこの間、
 山口昌男氏が『本の神話学』というのを出したでしょう。あの中のハイライト、
 ワールブルク研究所の話は、それこそ『学際』のお手本みたいで、僕もよく学生に
 あの手でゆけと言っていたものだが、・・その研究所の生みの親のアビ・ワール
 ブルクのことば、山口君もそれを引用しているけれども、クールティウスの
 『ヨーロッパ文学とラテン的中世』のなかに、二カ所引いてあるんです。
 それは、『愛する神はデタイルに宿り給う」というんです。これは好きだな、それ
 ですよ。それがなくちゃ文章というのは生きてこないんだと思う。研究もそう
 なんだ。ワールブルク学派(?)の人々、僕はみんな性にあうのでずいぶんいろいろ
 ご厄介になっている。だから僕もひょっとすると『ワールブルク学派』のはしくれ
 かも知れません。
 ・・現に梅田晴夫氏が何かに書いていたけれども、彼に言わせると、僕は日本の雑学
 者の巨頭なんだそうだ。」

 山口昌男さんの「本の神話学」」のほうが、この対談よりも先に発表されているので
ありますが、存在の大きさからして洋学派としては林達夫さんのほうが上でしょう
から、まず、このくだりを引いてみました。
 この時代(70年代初頭)になって、やっと専門にとらわれない知的なスタイルが
研究分野においても受け入れられるようになったことがうかがえます。
 最近は、梅田望夫さんのお父さんとして認識されているかもしれませんが、梅田晴夫
さんは雑学的な著作を発表しているかたでありました。専門バカでないクロス
オーバー的な発想をする学者さんは、ほとんど尊敬されない時代でありましたので、
梅田晴夫さんはすこし肩身がせまくって、そのスタイルの旗頭としての林達夫さんに
エールを送ったものでしょう。