「湯川書房の思い出」by 仙台が親戚

 本日から数回にわたり「仙台が親戚」様からいただきました貴重な記録を掲載を
させていただきます。

「 昨年になると思いますが、湯川書房に言及された事があったと思います。
その湯川書房湯川成一さんがこの7月11日お亡くなりになりました。
葬儀は家族葬で13日行われました。偲ぶ会を後日なされるそうです。
この欄をお借りしお知らせいたします。
湯川成一、享年71歳、あまりにも早い、悔しいです.

 湯川さんは秘密主義でした。亡くなったからいいでしょう、彼で統一します。
発行目録は無く、せめて湯川本として出したものは作るべきだと思います。
彼は私が貧しい収入の人間だったから、言わない方がと思っていた。
時に、「これ持っておけ」と教えて下さるものに限って希望者多く、私の注文が
人の取次でないと判ると「遠慮してくれ」の一言で終わり、中には「逃がした魚は
大きい」添え書き、小生の似顔絵付きでハガキ来たこともあります。
彼は、本当に欲しい本なら、努力して探すべきと思っていましたので、「本を
売りたくない出版社」の異名が。少部数の本となるとお客様、湯川本ファンの
収入を考えると、自分から案内出すと無理にでも買って下さるという、だから
出さないという、妙な優しさがありました。
彼は会った人をファンに「湯川病」にした、不思議な人です。小生は重症です。
 あのsumusでは普通人の一人と小生のことも言われています。
季刊「湯川」手許には6号までしかなく、7号は不明、小生はええ加減なので
創刊号もない始末です。下記アドレスは湯川本のファンクラブ「72倶楽部」の
刊本目録、(ここには記番が無く会員に木偏の文字が当てられた)
http://www.ne.jp/asahi/semino/koe/newpage7.htm
初期の刊行本は「季刊銀花」第14号に出ています。
今も彼の文章を見ると感激します。

 湯川本としての目録作成は、古いファンも居ますし、いずれ出来ると楽観しています。
ただ自費出版本、一般書を除て湯川書房から発行されたもの限定本、全部を湯川本と
するのは疑問を感じます。小生は京都に移ってからは、一冊の本に間接的にタッチした
ぐらいです。
 小生湯川書房の本の僅かしか眼にしていませんが、亡くなられた高橋啓介さんが在世
ならと思います。自分なりにうろ覚えで「一太郎」に本のタイトルの記録していますが、
40年近くともなりますととてつもない量、これを書誌として目録となると、「楽観」の
前言取り消しです。
(目録作成という)えらい宿題。果たして、答え出ますでしょうか。最適の人物はいるの
ですが、湯川さんの逝去以後、説得しているのですが、「うん」と言いません。
「おい年長者を尊敬しろ、言うことを聞け」。彼はPCを使っていませんから大丈夫です。
 そろそろ止めなければと思いつつ、高橋啓介さんのお話。
湯川さんの命で、時々、連絡に行きました。お宅は近く徒歩30分、近くの川の堤防上の道を
歩き、お宅のお庭を見て、「奥様お元気かな」と思っています。湯川さんのこと、
お電話しましたら大変驚かれ、弔電打たれたようです。高橋さん達は大阪の武井刊本の会
「本の会」を作って居られました。そこに湯川さんが入っていた(入らせられていた)よう
です。その会主体に「大阪版画の会」出来、相談役銅版画家木村茂氏のファンだった小生が
呼ばれ、会長古川氏に「君は家も近い、車もある、まして印刷屋、手伝ってやれ」武井刊本、
限定本など知らず、えらい人の言うこと、聞くのみでした。
 これが、湯川さんとの出会い、先に書いたように難病「湯川病」の感染源、忽ち重症です。
ある人に「妙に湯川さんと気があったということですね」と、それしか説明出来ません。
 愛書家のお宅に伺いますと、お宅は、本が一杯で、それも自作の箱や、紙に包まれ、
すごい人は天井裏にまで、ご本人は、中身知って本自体見えていますが、他者には倉庫に
入った感じです。
 お許し下さい。高橋さんのお宅も玄関まで本で、電化製品の段ボールなどで箱作られて
いました。今は、何処のお宅も主亡き後は、きれいさっぱりのお宅になっています。
高橋さんは、某保険会社のえらいさんで、退職後は週1回、会社に出られ、碁を愉しみ、
本の蒐集に一生を捧げられました。普段、質素な服装で過ごされました。退職後、
「肩書きのない名刺になった時は寂しかった」と話されましたが、同席した者全員が
「『高橋啓介』で充分通ります」と答えたこと、いいカレンダーも貰えなくなり、
いいカレンダーを入手した時は、お届けするのが通年のことでした。」