「湯川書房の思い出」3

 本日も「仙台が親戚」様からいただいたコメントを編集して掲載いたしました。

「 今度、湯川書房最後の本として、加藤静允先生の本が発行されます。三月書房で
入手できると思います。もしよろしければ、お求め下さい。加藤先生のご助力に
感謝いたします。
 晩年は整理に尽きるとええ格好しますが、退職後本半分整理しました。
中に、昔の湯川さんの指示書、落書きなどが出てきました。昨年のこと、どうせ
年上の小生が先に行くから、これらは「どうしましょ」と聞きましたら
「ほかせ(捨てろ)」でした。
しかし考えようでは僅かでも、とても貴重と考えて、戦前、湯川書房と同じように、
とても美しい本を出していた、大阪プラトン社を研究されていろ御子孫の方にお話し、
死後は預けようと思っております。(プラトン社についての本は「モダニズム出版
社の光芒」淡交社が参考になります。)
このことは、家人、長女に話してあります。この方は、人生奇なりで、今は湯川さん
とは縁戚となって居られます。まさか彼が先に逝くとは思っていませんでした。
心残りは、「ガンだ」と電話があって、駆けつけた後、奥様から「会いたい」と
言っているとお電話頂き、京大病院へ見舞った時、しんどいやろからと、いつもの
通り、アホばかりして、あのFMエアチェックした膨大なコレクションを「全部
聞いてからでないと死ねまへんで」と話したのですが、次ホスピスにお見舞いした
時は、痛み止めの薬で、ただ眠るばかりの湯川さんでした。
 手術成功して事務所に出てると聞き、次、京へ出かけた時は事務所空いてなく、
時間空費するばかりでした。

「病臥す 彼の事務所 閉じいても 京に入れば 我は訪ねん」

 思わず出来た歌です。お嗤い下さい。

今、ブログの話題は季刊銀花14号(私の本はもう背が割れている)のお話になって
いますが、昨夜小生も取り出し見まして面白いこと発見しました。193Pに
この年1月「古道具坂田」開店の記事です。
 この方が世に言う白洲正子のあと、骨董の目利きといわれる坂田和實氏の事だと
思います。小生はお二人とも真贋を問う目利きだとは思いませんが、白洲さんは
古い日本の文化に光を、坂田さんはうち捨てられたモノに美の光を当てられたと
思っています。
 この坂田で最初の個展を80年開いたのが、望月通陽さんです。同年、大阪の
波宜亭「布の戒律」展をされました。望月さんは湯川書房からデビューした方で、
今の活躍はめざましいものです。
 彼は湯川さんを恩人だと思っているようです。(ウエブマガジン志事人)
 彼はご家族を除いて、湯川さんが最後に会った人だと思います。
その時の湯川さんの手を描いています。私は「何たる芸術家魂」と思いながら、
彼は泣きながら、これを描きお別れしたのだと思ったことでした。

小生の所蔵する本で、一番湯川さんらしいと思う本は普通本ハードカバーの
宇佐見英治先生の「夢の口」

小生の一番好きな本 小型の本 村上春樹「中国行きのスローボート」
村上さんの本を提案した時、否定的な答えでしたが、日おいて「村上春樹の本出す
から」そう湯川さんはあまのじゃくでした。

 小生の紹介から生まれた本  岡田露愁のとても大きい(40×50糎?)
色彩木版画集「魔笛

一番思い出の本  塚本邦雄「蒼鬱境」但し、肉筆本の副本
最近では、湯川本らしい、愉しんで作ったなと思った本
加藤静允画文集「細石翁釣魚自傳」

 小生が湯川さんに出会った時は、小川国夫さんの「闇の人」出来た頃、書店では、
辻邦生さんの「天草の雅歌」が並び、後の「嵯峨野明月記」を読んで、湯川さんは
これを目指しているのだと思ったことでした。」