限定本をたどっていくとどこに行き着くのかと思いながら、「季刊銀花」14号に
ある塚本邦雄さんの湯川本についての文章を読んでおりました。
「 私の場合は政田岑生独特の美意識が加わり、従来の湯川本に異彩を添える結果
ともなった。『蒼鬱境』の贅を尽くした肉筆本は、もし私がたとえば後京極様の
流れをくむ名筆であったら後世に遺る稀覯本となっただろう。遺憾ながら高野切
三種の稚拙なまねびくらいでは、佐賀錦がないていよう。・・・(湯川は)端倪を
許さぬ力量を示している。限定本の貴種がこの後いかなる変貌を遂げていくか、
これは単に湯川本にとどまらず、著者、愛書家の大きな問題点であり、関心事で
あろう。」
「贅を尽くした肉筆本」というのをみたときに、辻邦生の「嵯峨野明月記」の
世界を思い起こしました。中公文庫版のカバーには、次のようにあります。
「 『嵯峨本』は、開版者 角倉素庵の創意により、琳派の能書家 本阿弥光悦と
名高い絵師 俵屋宗達の工夫が凝らされた、わが国の書巻史上燦然と輝く豪華本で
ある。」
この小説の解説は、菅野昭正さんですが、これには「嵯峨本」について、次の
ように記しています。
「 『嵯峨本』または『角倉本』とよばれる私刊本は、日本の古い書巻の歴史の
なかで、美しさにかけてはまちがいなく第一級の位置を占めている。・・・
雲母を引いたり雲母で模様を刷り込んだりした料紙を結びあわせた豪華本。
考えられるかぎりの優美と典雅とが、そこに実現されている。書物はただ読む
ためにあるのでなく、表装、料紙、文字、模様等々、形態にちりばめられた美しさに
よって、語られ歌われている華麗な世界へ読む者を導いてゆくものでなければなら
ないという思想が、そこに結晶されている。・・
本はなによりもまず読むものであり、書かれていることを汲みとれば能事は
終わるという、どちらかといえば単純素朴な機能主義に傾きがちな私も、美麗な
豪華本の効用に眼を開かれたような気がした。形態の美しさは必ずしも過剰な
装飾物ではない。それは文学言語における修辞のように、書かれていることがらと
ひとつに溶けあいながら、書物というもうひとつの世界をつくりあげる不可欠の
条件である。すくなくとも、『嵯峨本』においては、なぜ形態の美しさが必要で
あるかということにかけては、三人の協力者の間に了解が成り立っていたであろう
ことは、ほぼ間違いなく推測される。」
後世に残る豪華本を作りたいというのは、私刊本の版元には共通した願いで
しょうが、そこに必要なのは、角倉素庵のような富豪の存在であります。
現代の版元で、資金確保で苦労をしていないところは、どこにもないのでした。