加藤一雄教 9

 本日も「ちくま」87年10月号を開いています。この号には、杉本秀太郎さんの
「西国記 富士正晴加藤一雄」という文章が掲載されています。この文章は、
いまでは「パリの電球」(岩波書店刊)で読むことができるのですが、小生は、
このブログを記するにあたっては、「ちくま」によっています。
 そもそも、この号に杉本さんが富士正晴さんについて書くのは、次の理由に
よるものです。
「 富士さんのことにこだわっているのは、去る七月十五日、不意に亡くなって
しまったということがあるからだ。原章二にしても、折角の「加藤一雄の墓」を
富士正晴の墓にお供えするしかなくなったのは残念だろうと思う。原君は専ら
電話を介して富士さんから加藤一雄のことを聞き出していた。出不精のために、
私はふたりを引き合わす機をついに失ってしまった。」

 「ちくま」の締め切りが刊行予定日に対して、どのような設定となっているかは、
わかりませんが、87年10月号(いつも律儀に月の初めに届きます。)に掲載の
文章というのは、87年8月には書いている必要がありますでしょう。どちらに
しても、杉本さんがこの文章を書いたのは、富士正晴さんが亡くなった87年
7月15日から、そんなに月日がたっていないと思われます。
 この文章は、87年8月25日に刊行された原章二の「加藤一雄の墓」を推薦
するものでありますが、それと同時に、加藤一雄の作品に杉本と原を導いた
富士正晴への追悼の文章にもなっているのでありました。
 「ちくま」87年9月号には、筑摩書房の編集担当役員でもありました「臼井吉見
さんの追悼文が掲載されておりますが、亡くなったのは87年8月12日とあります。
富士正晴さんと臼井吉見さんのお二人が、このように前後して亡くなったことを
意識させたのが、今回の収穫でありました。