富士さんとわたし2

 編集工房ノアからでた山田稔さんの「富士さんとわたし」は、富士正晴さんと
山田稔さんの往復書簡を軸につくられているのですが、往復書簡集となって
いるのは、山田さんが富士さんからの書簡を保存していたことと、富士さんの
ほうでも来信を保存していたからであります。
 富士さんのところに届いた書簡は、現在は茨木市富士正晴記念館に収録されて
いて、それは整理、分類され保存されているのであります。これがあるからして、
往復書簡になるのでした。
 ちなみに山田稔さんが発した書簡は194通で、それへの富士さんの返信は
169通だそうです。これが33年間のほぼ全部なのでしょう。記念館で保存
している書簡で一番多いのは、同人誌仲間である「井口浩」さんのもので
794通だそうです。後年になってから富士さんはとんでもない時間に電話を
くれる人ということで名をはせるのですが、富士家に電話がついたのは
57年5月で、山田家についたのは64年5月だそうです。
 いまだに全体の四分の一ほどしかすすんでいないのですが、あちこちに傍線を
ひきたくなるところがありです。

「 富士さんはわたしとのおしゃべりのなかで文学の話をすることはめったに
なかったが、はがきでは後々まで、わたしの書いたものについて感想を述べて
くれ、それは第三者による批評または感想の伝達という形をとることもあった。
・・・物を書くとき、富士さんの眼を意識する緊張感は、その後もかわらな
かった。富士さんに軽蔑されそうな卑しい文章ー時流に迎合し、読者に媚びた
ものは書くな、そうわたしは自らをいさめ、その気構えを忘れぬようにして
きたつもりだ。いまでもわたしは、物を書くとき富士さんの眼を意識する。」

 非流行の作家 山田稔さんのファンが増えることはあっても減ることがない
のは、こうした気構えによるものでしょう。「卑しい、迎合、媚びる」としな
くては売れないのかもしれませんが、売れることによって失う物もまたあると
いうことですか。