大学の文芸学部

 むかしから大学には芸術学部というのがあったりしましたが、これは美術とか
音楽とかを専攻する学科なども一緒になっていましたので、文芸だけで学部を
つくったのは、どこが一番早かったのでしょうか。
 先日にブックオフで購入した「小説の快楽」の著者 後藤明生さんは、文芸
学部の教授をしていたのでありました。後藤明生は、出版社の編集者でしたから、
実作者として、また編集者として文学にかかわっていましたから、文芸学部に
勤務しても違和感はなかったかです。
「 なぜ大阪に移住したのか、とずいぶんたずねられた。そもそものはじまりは
『火宅の人』の檀一雄で、二十年ほどまえ、檀さんが主宰していた文芸誌『ポリ
タイア』の編集同人であり、かつ詩人であり、かつ医師であり、かつ参議院議員
あり、かつまた近畿大学総長でもある世耕政隆氏との不思議な因縁で、三年前に
新設された近畿大学文芸学部へくることになったのである。」
この文章は91年7月ということですから、88年くらいに学部はできたことに
なります。
 後藤は、初代の担当教授で、大阪で生活をすることになり、大阪を題材とする
作品を残したりしています。上の文章は、次のように続いています。
「わたしが今も新幹線で大阪へ通っていると思いこんでいる知人もいるらしい。
・・わたしの大阪在住を谷崎研究のためと早合点する知人もいるようである。
私は、旧植民と生まれのコスモポリテースで、日本中どこへいっても、根無し草
である。私はこれを、偶然の場所への漂着者であると自称して、そのときそのとき
漂着した場所を、これまで作品に書き残してきた。移住地を作品の場所とする点で、
私は荷風型ではなくて、谷崎型であるかもしれない。」

 さて、後藤明生は、どのような先生であったのでしょうか。