岩波の「図書」5月号が届きました。今月号は、哲学講座がでるとあって
それにちなんだ座談会「哲学のいま」と41年3月「図書」創刊のころに掲載
された三木清の「哲学はどう学んでゆくか」という文章がのっています。
その昔は、岩波講座というのはひとつの権威でありましたですね。とりあえず、
このシリーズをおさえてさえおけば大丈夫というか、安心できるというお札の
ようなものでした。文系の学部生は、その専攻にあわせた岩波講座の何冊かを
かならずもっていたように思います。(いまから40年くらい前のことですが。)
岩波講座が成立しなくなってきたのは、大学闘争を通じて学会の権威と
ヒエラルキーががたがたになったことによるのでしょう。
三木清さんは、日本の哲学全盛期に京都大学で学ばれて、次の時代を担う若手と
京都学派では期待をされ、自らもそのように意識をしていたのですが、戦時下の
取り締まりにあって京都に残ることができず、まだこれからというところでなく
なったのでした。その方の文章には、次のようにあります。
「私自身の経験を話すと、高等学校の頃、哲学に関心を持ち始めたとき、我が国には、
まだ哲学概論と称する種類の書物はほとんど見あたらなかった。私が哲学に引きいれ
られたのは西田幾多郎先生の『善の研究』によってであった。そして今もわたしは
この本を最上の入門書の一つであると思っている。そのころの高等学校には、文科にも
哲学概論の講義はなく、あったのは心理と論理とだけであった。また高等学校の時には、
後で哲学を専攻をする者も、心理と論理とを勉強しておくものだというのが、私ども
一般の考えでもあった。」
三木清さんから25年ほどして、山口昌男さんは岩波哲学講座への寄稿のことで、
当時滞在していたナイジェリアから、担当編集者の大塚信一さんへ次のような書簡を
送っています。
「枚数および稿料で大変ご迷惑をおかけして申し訳なく思っております。枚数に
ついては、全便で弁明したようにどうしようもありませんでした。あれで抑えた
つもりです。
貴兄には関係ないことなのですが、書きながらも『だから講座というケチな、
あまりにも日本的な出版形式は嫌いなんだ』とブツブツ言っていたものです。本来は
内容が形式(=枚数)を決定すべきなのに、それが逆に転位している。物を書くという
行為は、読者を筆者の嗜好にまきこむ過程を創造する、ある意味でのドラマである・・
そのドラマが成立しない場合、それはチンドン屋以下の茶番劇になるのではないか。」
山口昌男がいうところの「日本的な出版形式」というところには、なんとなく共感
してしまいますが、皮肉なことに、この時の講座は、山口昌男と林達夫の論文「精神史」
が話題となって、岩波哲学講座では一番ユニークなものとなったのでした。。
しかし学生の反乱で、「日本的な出版形式」をささえていた土台が揺るいだことで、
これからあと、「講座」というスタイルは大苦戦を強いられることになり、今回の
講座にいたっては、「いま哲学・思想の状況は、かなり危機的だと認識しています。
その文化的・社会的なあり様が二極分化している。一方では『町場の哲学』談義といった
ものがはやっている。他方では専門的な洗練された研究がなされているけれども、
その内容は一般の人たちにはみえにくくなっている。」( 座談会での西垣通さんの
発言)
文系学問を下支える哲学が、もうすこし活発にならなくては、健康な社会には
ならないのではないかと、最近のすぐに熱くなって、きれてしまう世相を見るときに
感じるのでありました。