書籍の周囲

 林達夫さんには「書籍の周囲」という岩波「思想」に連載していた文章が
あります。この連載は、1925年11月からでありますから、林さん弱冠
30歳のときのものですが、今、読んでみても文章と内容の両方ともが、
古びていないことに驚くのでありました。
 「序にかえて」とある文章の書き出しは、次のようなものです。

「 今日ほど書籍の夥しく刊行される時代はない。専門の著述家はもとより、
 予備将校も俳優も小学教師も美しい未亡人も年のゆかぬ娘もせっせと本を
書いて、どしどし大胆にあるいは厚顔にこれを公刊している。著作出版は現代の
一つの偏癖(マニー)であり、その過多は現代の一つの病である。・・・
 この巨いなる書籍の大河の中にあっていかに処置すべきかは、読書人にとって
一つの緊急な課題だからである。我々は溺れざらんがためには、身を救う何等か
の方法を考えてみなければならない。我々はいかにすればよいのであろうか。
 私は考える、第一の方法は、もし著述家にしてそれを聞き入れてくれるならば、
彼等に本をつくるよりも、野菜でもつくることを奨めてみることである。それには
書くことは一つの迷執であること、彼の本はやがて古本屋の書棚に埃にまみれて
曝されること、ついで人はそれを忘却してしまうであろうなどを説き明かすも
よかろう。しかし人間の偏癖は恐ろしく頑固なものであるから、我々の穏やかな
諫言はもとより、あらゆる種類の暴力もこれを止めることはできないであろう。
やむを得ず我々は彼等の本には見向きもせず、皆散歩にでも出かけることにして、
彼等を懲らすより仕方がない。ところがそれはわれわれのあたわざるちょうど
その事である。悲しいことに我々はすでに書籍に余りにも中毒しているから、
物を考えるにも物を感ずるにも書籍なしでは能わない。酒やたばこの愛用者の
ように、我々は習慣的に本をてにしなければ一日も暮らせないのである。」

 まったくもって、きもちのいい文章でありまして、どこまでも引用を
していたい気分になります。いまから83年ほども昔にかかれたものですが、
当時としては、きわめてハイカラな文章でありまして、当時の文人たちの
文章をならべてみましたら、その差は歴然とするのですが、本日の引用は
「文藝復興」中公文庫 からですが、中央公論社は、林達夫さんの文庫を一度
復刊してほしいものです。