「深夜の読書」

 昨日に立ち寄ったブックオフで購入したのは、その時は意識もしていなかった
のでありますが、書名に深夜の文字がはいるのでありました。しかも、どちらも
深夜に本を読むという趣旨の書名で、それは、次の2冊です。

「 深夜の読書」 辻井喬堤清二) 新潮文庫 87年 (元版は82年)
「 深夜快読」 森まゆみ ちくま書房  98年  
 
 どちらも多忙な生活のなかで、自分の時間を確保して本を読む楽しさがテーマの
ような本であります。「生きることは本を読むこと」であります。

 辻井喬さんのほうは、この時代が経済人としても絶頂期であったのでしょう。
ほとんど文化経済人という存在でありまして、このように「おいしい生活」を
アピールして商売が成り立つのであれば、ほんといいのにと思いましたです。
鉄道の経営者となった異母弟さんとは、経営についての考え方がことなるせいも
あって、小生は「おいしい生活」のほうを支持しておりました。
 この「深夜の読書」という文庫本には、江藤淳の解説がついているのですが、
そこには、次のようにあります。

「 知識人という要素を共有しているという点で、辻井喬氏と堤清二氏との間に
成立している関係は、ジエキル博士とハイド氏との関係とはいささか趣を異に
しているといわねばならない。つまりスティーブンソンの怪奇小説の場合とは
違って、辻井喬氏と堤清二氏との二つの人格は、この知識人という一点に於いて
にわかに融合する。すなわち『深夜の読書』とは、その大概に於いて知識人である
著者の読書の記録である。」
  
 今となっては、あったりまえのことを江藤淳はいっているように思いますが、
たぶん、まだこの時代に辻井喬の名前は、堤清二との結びつきが強くなかったので
ありましょう。(江藤淳も、本名である江頭淳夫との関係についていいたかった
のかもいれません。)

 ほとんどの読書人(または購書人)は、それを仕事にしているわけではないので、
仕事をする自分と、本を読む自分とが分裂しているとは、普通は思わないのであり
ますね。分裂していると、勝手にレッテルをはったりするのは、他人の目です。
たまには、どう考えてもおかしいぞと思う例があるようです。先日に話題となった
小学校の教頭先生は、少女写真の撮影者として有名で、その写真をやめることが
できずに懲戒免職となったのでした。この二つのキャラというのは、自分のなか
ではほとんど分裂していなかったのでしょうが、この分裂したキャラを統合する
のは、相当に大変であります。
 最近は、あまり話題にならないようですが「家畜人ヤプー」の沼正三さんの
正体は誰というのがありました。覆面作家とはいっても、この作品でありましたら、
人格に問題がないのかということで正体探しが行われたのです。この作品を
書くのであれば、よほどの人ということで、名前があがった一人に東京高裁の
判事である倉田卓次さんがいます。「裁判官の書斎」という著書がありますが、
とんでもなく知識人であるのは間違いないのですが、この人が、本当の作者で
あるとしたら、とんでもない二重生活者ということで、世間からバッシングされた
のでありましょうね。
 先日に話題にした東芝西田社長とか、辻井喬さんにおいては、昼と夜の顔は
違っていても、統合されていて問題とはなってきませんが、たぶん、お二人とも
が、多くの試練をのりこえてこられてきたからでしょう。

 「深夜の読書」には、「吉田さんの優しさ」という吉田健一さんの著作集月報に
寄せた文章があります。

吉田健一さんのことを私はいつもある種の辛い感情のなかで思い出す。
 わたしにむかって彼の名前をはじめて口にしたのは、政治専門の某雑誌社の社長
だった。
 『先生は偉いけど、息子はどうしようもないよ、頭がおかしいんじゃないかな。』
と、その男はあしざまに語った。当時は吉田内閣の終わりの頃で、私は衆議院議長
秘書として毎日国会につとめていた。・・・・・
 吉田健一さんに関する私の辛い感情とは、他の分野の人に対する徹底した蔑みの
風習のことだ。ことに世俗的に恵まれている職種とされている政界と産業界の人間の
態度にそれが際だっている。
 しかも蔑みが一番深くなる部分こそ、他の分野の人々が存立している根幹の精神
なのだというところに、私は、どうにもならない亀裂のようなものを見ない訳に
行かず、吉田さんはその亀裂を全身に浴びて生きた人だったという点で辛いのである。
氏の受け辛さの深さこそが氏の文学の強さであり魅力になっているのではないか」