旅の宿から3

 本日は街歩きと本屋散策をすることができませんでしたので、昨日に
話題とした「飯島耕一」についての本から話題をいただきます。
 飯島耕一がひどい抑鬱症となり、それから抜け出るために数年を
要して、抑鬱を克服したあとに発表した「ゴヤのファーストネームは」は、
小生にとっても、一番大事な詩集となったのでした。
 この本のなかで、飯島さんは自分の「心身の違和感」について、次の
ように書いています。

「『他人の空』を出して20年後に、わたしとしては最大の危機がやって
きた。1970年にわたしははじめて半年間のヨーロッパ滞在を経験し、
十月半ばに帰って来て、十一月に三島由紀夫の事件があった。翌年四月頃
から心身の違和感を覚え、抑鬱症とわかり、十二月にはかなり悪化し、
翌72年七月頃までがひどかった。ようやく八月、一人で外を歩けるように
なり、九月になるとずっとよくなり、先が見えてきた。この九月頃、詩を
書きたい気持がごく自然に芽生えてきて、原稿用紙にまず「木」と書いた
のを覚えている。散歩の途中で見た林の木が美しいものに感じられた気分が
あった。
 十月、十一月と二十歳以来二度目の暗中模索のうちに、すこしずつ書くことを
練習し、そこで苦心して一篇にまとめられたのが、『ゴヤのファーストネームは』
の『歩行の原理』である。この詩はわたしの再生を記念する詩ともいえるが、
いまは痛々しくて読む返す気になれない。この『歩行の原理』を書いたとき、
すでに四十二歳になっていた。。72年は、敗戦の45年とともに、わたしが、
根底から揺すぶられた年だった。」 (自作についてより。)

 四十二歳でありますか。これは後厄でありますよね。詩人にも厄年という
のはあるのですね。「歩行の原理」は痛々しくとありますが、書き出しの
8行は、次のとおり。

 きみはことばで歩く
 脚によってではなく
 きみは脚でことばを話す
 口でではなく。 
 木ということばが戻ってきたのも
 最初に知ったのは脚だった 
 木ということばが戻ってくると
 木を直視することができる。

 どのように才能があったとしても、どこかで行き詰まることがあって、
そのときをどのように耐えるかが、その後の詩人の人生を決めるのでしょう。
特に、飯島さんのように、若くして名声を勝ち得た詩人が、デビュー作
以上のものを生み出すというのは、精神の危機をも経験するということで
ありましょう。