「山口昌男の手紙」

 本日も、大塚信一さんの「山口昌男の手紙」からの話題です。
 80年1月25日に記された手紙の話題は、ニューヨークにいて、中央公論社
編集者である塙嘉彦さんの訃報を聞いてのものです。

「 今日1月25日はとても悲しい日でした。ふつう金曜日といえば週末です
から、芝居を見に行ったり音楽を聴きに行っているはずが、来週からの講演旅行の
準備のために部屋にいたところが、家内から電話があって、塙君の死が告げられ
ました。瞬間、途方に暮れてどうしていいかわからず、しばらくぼーっとしていた
けれど、誰か塙君と共通の友人の声を聴きたくなり、咄嗟に大江氏の所に電話し
ました。
 電話をしたからといっても言うこともなし。つらい、悲しい、どうしていいか
わからないといって、沈黙を交わしただけだったけど、電話を切ったあと、
誰かと悲しみをわかちあったというだけで、父の死にさいしても涙を流さなかった
小生も、つらくて、動物のような声をあげて、泣き叫び続けました。」

 これまた、なんとまあ直接的な表現でありましょうか。発表するつもりの
文章ではないからして、この表現となっているのでしょう。
 以上に引用した文に続いては、次のようにあります。
「 おちついたと思って、ここまで書き続けてきたら、悲しみが心の底から
噴き出してきて、続けていくのがとても難しくなって、慟哭しながら、書き続けて
います。つらい、とてもつらい。僕は生まれてから、この方、こんな悲しみを
味わったことは初めてなので、どうして耐えていいのかわからない。・・・
どうして、こうも素晴らしい人間が死ぬのか、塙はやっぱりロレンスの言う
炭坑夫にとってのカナリヤだったのかも。取り乱してすまない。」

 このような私信の公開を許したということの意味を、つくづくと考えてしまう
ことであります。