「のの字」外山滋比古

 「みすず」の表紙裏で連載されている外山滋比古さんの「木石片々録」9月号の
タイトルは「のの字」であります。
「街中を歩いていると疲れる。なにかわびしい感じになる。都市は砂漠のようだと
いうが、砂漠はこんなに寒々しくはない。目にはいるものがすべて角ばり、しゃち
こばった直線と直線がぶつかりあってすさまじいばかり。ひょろひょろの街路樹は
圧倒されて青息吐息である。・・・・直線ばかりの空間に包まれていると、曲線を
求める無意識がはたらき出すように思われる。」
 都市の直線による息苦しさから、漢字と仮名の対比になる。
「 血の通った線の美しさということにかけては漢字は仮名におよばない。
  いまの日本語が漢字まじち仮名文となっているのは、考えてみると、実にうまく
できている。硬質な直線の漢字とやわらかな曲線の仮名とが融合して、美しい字面を
つくりだす。おそらく外国のことばではこういうわけにはいかないだろう。
 仮名のなかでも『の』は別格で、もっとも豊かな線である。響きも申し分がない。
ことばにやかましい和歌、俳句では、同じ字音の重なるのを嫌うけれども『の』だけ、
いくら繰り返してもよいことになっている。
 都市の街なみの景観は『の』の字の味わいにあたるものが欠けているのである。」

 「のの字」ということになると、これを著書のタイトルにしている田村義也さんの
ことを思い起こさないわけにはいきません。(別に、外山さんが、田村さんの文章に
触発されて書いたものではないでしょうが、通底するものを感じることです。)
田村さんの「のの字ものがたり」のまえがきには、次のようにありました。
「 書名を描くのは、私の装丁のなかでいちばん重要な仕事である。それには、
とくに集中力が必要なので、家人が寝静まった真夜中にやるのだが、いつも気になる
のは『の』の字のことである。
 啄木の『東海の小島の磯の白砂に・・・』のような『の』の連続はよく引用される
が、日本語の構造からもくるのだろうが、『の』の字のつく書名はかなり多い。
この平仮名は、一筆書きの曲線なのだが、ちょっとした筆使いで、たちまち千変万化の
表情をみせて、おもしろい。」
 田村さんの「のの字」へのこだわりは、とにかくこの文字がはいる書名が多いせいでも
ありますが、田村さんも「のの字」との格闘にそれ以上のことを感じていたでしょうか。