「狩月記 文学的断章」2

「復軒旅日記は、大槻文彦博士が一代の大著作大言海に身心を労せられる合間、
折々の備忘用に書き続けられた筆のすさびではあるが、一面大言海資料探訪の
ノートともいうべく、国語語源に関する新説が随所に記され、この大国語学者
工房日記としてまことに興味津々たるものがある。・・」以上の紹介の短文は
大岡信が、「だれが書いたものか知らないが、『旅日記』についてのまことに
適切な解説となっている。」といっています。(小生の引用は、大岡の引用を
さらにショートカットしています。)

「『復軒旅日記』の最初の旅行記は、明治12年の『上毛温泉遊記」である。
 大槻文彦はこの年33歳、『言海』の仕事を開始してすでに四年を経過して
いる。・・暑中休暇を得て伊香保に遊んだ彼は、博物学者の田中芳男と連れ
だって、四万、草津の温泉場へと足をのばす。」
 大槻先生が旅日記に記しているところでは、当時の草津温泉というのは、
熱の湯で売っていて、梅毒にきくということになっていたのだそうです。

「 其の浴するの熱度は華氏125度なり(摂氏51)なり、余かって
 東京市中銭湯の熱度をた試みし事ありしに、かの侠勇と呼べる鳶の物等の
尚熱を忍びて入るものは、156度なり(約46度)なり。これにてこの熱の
湯の熱を思うべし。::この湯はことに梅毒に効ありとし、浴する物ものは、
たいてい経久こ疾におちいりしものにて、みなこの熱湯に病を投ずるは
死ぬると癒ゆるとの両途なりと決心し、実に此の熱に死ぬるもの往々ありと
いへり。」
 とここからは、無頼の人たちが、隊長の音頭一つでゆもみをして、熱湯に
はいっていくのでした。そのときに、かけるかけ声が、「梅毒は根切れだ
もうすこしの辛抱だ。」というやつだそうで、それに同病のひとびとは、
声をあげて和すのだそうです。
 国内の梅毒がいつころからあるのかわかりませんが、明治初年には、
そうとう問題となっていることがうかがえます。
このべらぼうな熱湯につかって、本当に梅毒が治ったものであるか、
これは気になることであります。