「記憶の蜃気楼」鈴木信太郎

 高等遊民という言葉があって、仕事はなにもしていないが、食べるのには
困らずで、趣味にいきるというような人のことをいうように思いますが、
そのむかしの文学者なんてのは、仮に大学などに勤務していても遊民の
ようなものであったのでしょう。

 戦前からのフランス文学者でありました「鈴木信太郎」さんの文庫本
「記憶の蜃気楼」を手にしていましたら、次のようなくだりがありです。

「 私も日本フランス文学の伝統の通り、辰野隆や山田珠樹や渡辺一夫
同じく、人生50歳まで親父の臑を囓り続けて暮らしてきた。親父は私の
30歳の時に死んだが、その後も臑は塩漬けのハムになって残っていた
わけだ。それが天皇制崩壊とともに焼かれたり奪取されたりしてしまったので、
初めて月給と原稿料とで、すなわち自分の腕で、一家を養い始め、ようやく
その生活も軌道にのってきたのだ。」
 フランス文学をやるということは、50歳くらいまではかじれるすねが
あったということでありますが、なるほど、むかし文学者になるといったら
勘当されるはずです。

 鈴木信太郎さんは、自分の蔵書をおさめるための鉄筋コンクリート製の
書庫を建築するのでありました。1945年の年譜には、次のようにありです。
「 米軍の空襲が熾烈になり親類・友人に家を焼かれるものが続出する。
 書物の焼失のみが気がかり、自ら耐火建築の書斎の換気孔をセメントで
ふさぐなどして、延焼防止のために働く。大空襲で罹災、住居は全焼したが、
鉄筋の書斎と本は無事であった。」

 自宅が焼失して書庫が残ったので、戦後しばらくは書庫のなかに住むことに
なりました。そうした日々のなかで、教え子の梅原成四が、ある日に情報を
もってくるのでありました。
「 先生、大変なものがでました。神田の古本やにボードレールの「悪の華」の
初版と再版がでたんですが、先生に見つかると困るので、秘密にしておいて、
僕の方の学生が、いままで集めた本や身の回りの品物を売ってお金をこしらえて、
買ってしまいました。といかにも気の毒そうに言う。これには私も、路地から
いきなり自動車が飛び出してきたような、なんともいえないショックを感じた。」
 この梅原の教え子というのが「松山俊太郎」でありました。
「 梅原を通して私はその好意に浴し、数週間、初版再版の『悪の華』を
私の手元に置くことを得て、かなり精密に点検した。・・ 
私はいま、松山君の好意により、初版を写真にして勉強している。同君がこの本を、
身ぐるみ売って買い取った熱意にも感心するが、こんな素晴らしい世界的な本を、
しかも初版、再版併せて、だれが日本に輸入したのだろう。わたしはそういう
日本人に敬意を表したいのである。」
 
 「後方見聞録」についてふれた時に、松山俊太郎が「悪の華」初版を所蔵して
いて、鈴木信太郎ももっているはずと書きましたが、鈴木さんが手にした初版は
松山が入手したものでありました。鈴木信太郎としては、これを入手できなかった
ことがよほどくやしかったことでしょう。
「 一生をフランス文学の本と親しんで暮らしてきたが、さてどんな本を得た時が
 一番嬉しかったか、振り返ってみると、得たときの喜びよりも、本を失った時や
獲得しそこなった時の悲しみや無念さが、すぐにはっきりと心に浮かぶ。」