この連休には、数回、本屋に足を運びましたが本を買うには
いたらずでありました。探していたものはあったのですが、これが
見つからなかったことと、お客がきていて、あちこちに本の山を
築くのを自制せざるを得なかったためであります。
結局は、知人に確保をお願いしてあった新刊を届けてもらったり、
ネットで注文をしてあった本が届いたりでありました。
本を届けてくれた知人は、これで数日はブログの材料には困らない
でしょうといってくれましたが、たしかにそのとおりではあります
ものの、昨日まで話題にした「編集工房ノア」とは比較にもならない
天下の「岩波書店」の大塚信一さんが著者の「理想の出版を求めて」
トランスビューを材料では、ちょっと居住まいを正してからでなくては
取り組むことができません。そういうわけで、これはおいおいにです。
結局は、この一週間で入手した本のうち阪田寛夫さんのものが3冊と
なりました。講談社文芸文庫新刊と「それぞれのマリア」「庄野潤三
ノート」ですが、しばらくは、このあたりを手近におくこととします。
なんとか読み上げることができないかと、それこそねころんで読んで
いたのは、安岡章太郎の「僕の昭和史」で、これはやっと先の大戦が
終わりをつげるところまできました。
やはり、これまでのところでは、安岡と古山高麗雄、倉田博光など
「悪い仲間」の交友のところが読ませます。
「戦争と自我形成期とが同じ時期にぶつかった僕にとって、この築地
小田原町の頃は青春期のヤマ場であり、しかもそのヤマ場を自分自身の
弱さのために、自ら回避してきたという想いがある。それだけに僕は、
この頃のことはなんべん繰り返して書いても、十分にかけたという気が
したことは一度もない。」
古山のはらのすわり方、倉田の女性問題へのはまりかたとくらべると、
安岡の場合は、悪さも中途半端な感じがしますが、そのことを自らも
気に病んでいて、それが作品をかかせる原動力になっているということ
でしょう。古山の場合とどのように違うかは、古山の文春文庫の連作を
見ていただくのが一番であるようです。