「黄色い涙」と保倉幸恵

 永島慎二原作の「黄色い涙」が映画化されたので、永島さんの原作を書店でみかける
ようになりました。「フーテン」とか「漫画家残酷物語」とかは、60年代の雰囲気を
良く伝える作品であると思います。
 今回の映画化となったのは犬童監督が、いぜんにNHK銀河ドラマシリーズでこの作品
をみて感激し、いつかこれを作品化したいとあたためていたのだそうです。
テレビ作品は70年代の初頭にやっていたものでしょう。(検索をかけるとはっきり
するのですが。)
 NHKでやっていたアーカイブスのような番組に森本レオが登場して、自分が出演した
この作品について語ったのをみたことがありました。あの時代は、番組はVTRで収録
されたのだそうですが、テープがめちゃくちゃに高いので、つかいまわしとなって
いて、ほとんどNHKにも作品としては残っていないのだそうです。これが放映となった
のは、森本レオが個人的にvTRを所有していて、放送を記録をしていたためであった
といっていたように思います。テープが高いのですから、その時代のVTRなどいったい
どのくらいの値段であったのでしょう。当然のこと、放送局用のものであって、
いまのような民生用のものではありませんです。このNHK作品を見ながら、森本レオ
感涙にむせぶというのが、いかにも森本の青春時代の作品という感じが伝わって
きたのです。
 このテレビ版の「黄色い涙」には、70年から2年間「週刊朝日」の表紙モデルを
つとめて一躍人気となった「保倉幸恵」さんがでていたのです。あの時代に青春時代を
過ごした人でありましたら、「サチエ」さんを目当てに「週刊朝日」を購入した人が
いたでしょう。週刊誌の表紙とくらべると、テレビ画面のなかでは、もうひとつで
あったように思います。作品が「黄色い涙」のようなものでしたら、まだしもですが、
普通の雰囲気のドラマでは、浮くような感じでした。そのあとでしょうか、「天下御免
という平賀源内を主人公とした破天荒のドラマにも「星娘」という役名で出演をして
いましたが、この役名は、その後の彼女のことを考えると象徴的であります。
 いまは評論家として有名になっている川本三郎さんは、むかしは犯罪に荷担したという
ことで朝日新聞を首になったひととして有名でありました。
会社を首になって十数年経ってから70年初頭までについての回顧を書いたのが、川本三郎
の「マイバックページ」(ある60年代の物語)河出文庫です。
この書名は、ボブ・ディランの著名な曲のタイトルからの借用ですが、この作品のなかで、
かって週刊朝日の編集部にいたときに接触のあった「保倉幸恵」についての思い出を
書いています。
「 保倉幸恵は、1975年、7月8日、早朝、蒲田の跨線橋から、久里浜発東京行の
 横須賀線電車に飛び込み、自殺した。22歳だった。
 警察では身許を確かめられず身許不明のまま火葬にしたという。22歳の若さだし、
 仕事も順調にいっていたので誰もが自殺するとは思わなかったのだ。・・
  当時の週刊誌の記事を見ると、父親が幸恵は欲のない子で芸能界にはむかないと
 いっていましたというコメントを残している。ファイブイージーピーセスのジャック・
 ニコルソンの泣く姿に共感した彼女には、生存競争のきびしい芸能界でいきていく
 たくましさがなかったのかもしれない。」

 彼女の生き方自体が、「黄色い涙」の作品世界を体現しているように思うのであり
ました。森本レオの涙は、自分の青春時代と失ってしまったものへのささげものである
のかもしれません。
( 保倉さんについては、以下のところでもふれています。
 http://d.hatena.ne.jp/vzf12576/20080707
 http://d.hatena.ne.jp/vzf12576/20090707  )