一日早く連休に

 本日は気温はあがったようですが、それ以上に風が強くて、夜になっても

風の音が聞こえています。庭にたててある小さな鯉のぼりは、風に翻弄されて、

小さな矢車にからまってしまっています。

 いまから三十年ほど前には、庭にポールをたてて大きな鯉のぼりをながして

いたのですが、それが矢車にからまってしまったら、ポールをさげて吹き流し

を解放してやらなくてはならず、大きな鯉のぼりをあげるというと、矢車に

からまりつく吹き流しで往生したことを思いだすことです。

 鯉のぼりといえば大型連休でありまして、世間は29日からスタートであり

ますが、当方は一日はやくに連休にはいることになります。

 大型連休のために図書館へといって、本の入れ替えをすることになりです。

手持ちの本でも、読みきれないくらい積まれていますのに、そのうえまだ借り

るかでありますが、まあ刺激は多いほうがいいからしてであります。

 本日に借りたものは、どちらかというと読めそうなものが中心でありまして、

連休のうちに、読んだものをもっていって、図書館で借り換えができましたら、

これが一番でありますね。

 これは読むことができるだろうというものを、紹介することにです。

寒灯

寒灯

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 図書館には、そこそこ西村賢太さんの作品がありまして、小説作品でも未読の

ものがありますので、それを借りて読んでみようと思っています。西村作品は、

いくつか読みますと、あとはそれの変奏という感じであるのですが、マンネリ

何が悪いという開き直りに、恐れ入って手にしてしまいます。

 今回借りたのは、「秋恵もの」といわれる作品集であります。本日に読んでい

るところでは、秋恵との同棲生活を始めるためにアパートを借りて、そこに転居

するときの主人公が持ち込む荷物についてのところに反応です。

「彼の方の引っ越し荷物も、五十数函のダンボールに詰めた明治大正から昭和

二十年代までの近代文学の初版本と、或る私小説作家の墓標と資料、それにその

著作掲載誌約百五十冊程を除けば、人並みの家財道具の類など何ひとつとして

なかった。」

 これらの資料は、一本七千円くらいの組み立式スチール本棚、八本でほぼおさ

まる計算なのだそうです。もちろん潔癖な主人公でありますからして、貴重な本

を床に積んでそのままになんてことはないのでありますね。

とりあえず録画することに

 ほんとに映画館に足を運ぶことがなくなっています。新聞などで映画の紹介

があって、興味をひくものもあるのですが、それはかなりマイナーな作品であ

ることが多く、当方の住むまちの映画館(シネコンとミニシアター)にはかか

りません。

 新聞で紹介される映画をシアターで見られるというのは、日本でもごくごく

限られたまちとなりますね。

 そんなわけで、当方が映画を見物するのはTV放送でとなります。そんなこと

を思っていましたら、最近読んでいた小林信彦さんのコラム集にも、次のよう

にありました。

「このところ、NHKBSプレミアムが毎日午後1時から放送しているアメリカの

往年の名画シリーズを喜んでいる。コロナウィルスで外出できない時代に、家で

テレビと向いあっている人間はそういうことになる。

 昨日、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(41年)を久々に見た。」

 この文章、週刊文春の掲載日は2021年7月1日とあります。

 試写会とか劇場に足繁く通っていた小林信彦さんでありますが、病気となって

からは外出も思うように出来なくなりましたので、好きな映画についてもビデオ

かTVで見るしかなくなりです。

 残念ながら小林さんは田舎町に住む当方と同じような環境となってしまった

わけですが、違うのは熱心にBSプレミアムで映画を見ていることですね。

 新聞のTV欄をみましたら、本日のBSプレミアムで「市民ケーン」の放送があ

ることがわかりました。この機会に、この作品を見るようにしなくてはと録画

したのでありますが、録画は容易ですが、見るのはなかなか大変であります。

この作品について、小林さんは「むかし、NHKが初めて放送した時に見て、

ATGが封切った時にも見て感動した。今度、三回目に感動したのは、オーソン・

ウェルズの<時代のつかみ方>である。」と書いています。

 これは見なくてはだめでしょう。(なんとなく、以前にVTRに録画している

ようにも思いますが、見た記憶はなしです。)

 

 

隔世の感あり

 足立巻一さんの「虹滅記」を読んでおりました。この作品は、足立さんが

「やちまた」を昭和49(1974)年に刊行したあと、恩師である石川乙馬

先生の伝記「夕暮れに苺を植えて」とあわせて三部作にするつもりで、昭和49

年から同人誌に連載を始めたといいます。

 今から半世紀近くも前でありますが、これを読んでいて、一番強く隔世を感じ

るのは、次のようなところでありますね。

「松田家に養子になった献吉は、三年あまりして明治三十八年五月二十日、ここ

でも協議離縁となり、同日、同じく山鹿町山鹿六番地の古閑丸スモという女の

養子となった。それで敬亭の戸籍での記載は切れている。

 そうすると、わたしには献吉というはじめて知る叔父がいたことになり、その

消息がひどく気になった。それで古閑丸スモの戸籍謄本を取り寄せた。」

 文学評伝を書く上での基本資料の一つは戸籍でありますが、この時代は、その

調査というのは、よほどの親族の強力を得なくてはできないことであります。

その昔でも、文学研究のためにということで、物故作家の戸籍などを得ることは

できなかったと思うのですが、現在では親族関係であっても、対象範囲は制限さ

れていて、請求しても難しいのではないでしょうか。相続のために必要というの

とは違いますものね。

 最近の文学研究されている人たちは、このあたりをどうされているのでしょう。

もちろん、戸籍というのはやっかいなものでありますので、これなど他人に簡単に

入手されては困るのでありますが。

 足立さんの「虹滅記」を読んでいましたら、あちこちに戸籍請求するという記述

があるのですが、このうちのいくつかは、たぶん今でありましたら、請求しても

許可にならないでありましょうね。

 そんなことを思っておりましたら、先日にJunJun先生がブログで「作家の長者番

付」を話題にしていました。かって国税では一定以上の高額納税者を公開していた

のでありますが、これも個人情報保護という観点から発表されなくなって、どの

作家さんが売れているのかどうかが、納税額で確認するということができなくなっ

てしまっています。これもちょっと残念なことであります。

jun-jun1965.hatenablog.com

 

3年連用日記

 本日はお天気よろしですが気温上がらずで、最高気温は11度に届かずで

ありました。札幌では桜が開花したとの便りでありますが、こちらはまだすこし

時間がかかりそうです。 

 それじゃ昨年はどうであったろうかと、庭作業のことも含めて日記を確認する

ことになりです。デジタルで管理されている人もいるでしょうが、当方はこれを

「3年連用花日記」で管理であります。

 婦人之友社からでているもので、挿絵は深沢紅子さんです。

 なんといっても当方の住むところでは冬季間は庭仕事はお休みでありますので、

12月から3月下旬まではいつも書くことがなくて、真っ白であります。

 この時期の仕事といえば、バラなどの風よけにかけている袋をはずしたり、

伸びたバラの枝を剪定したりすることと、あとは小さな菜園のために堆肥をまぜ

こんで、芝生に目土をいれたりです。

 本日にどっと堆肥と目土を買うことになりましたので、明日は朝から仕事にと

りかかることにです。明日は気温が上がるとのことで、すこしは仕事がはかどる

でしょう。

 

 

今年も「山猫忌」を 2

 長谷川四郎さんの祥月命日にあわせて四郎さんの文章などを読んで話題にする

ことをしています。

 今年は「ところで今は何時かね」を取り出してきて、それに収録されている

「わたしと健康」という文章を読んでみることになりです。元々丈夫、頑健な身体

でシベリア抑留を乗り切ってきた四郎さんでありますので、健康なんてことはいわ

ずもがなのことでありましたが、その認識を変えなくてはいけなくなった時期にか

かれたものであります。

「去年から今年にかけて健康がとみにあやしくなってきた。なんにも、きっかけと

いうものがあるように思うが、こに、健康がとみにあやしくなったきっかけは、

つぎのようなものだ。」

 四郎さんは、このように書いたあと、そのきっかけを自宅近くで坂道を駆け出し

て、その勢いで転倒し、下あごをコンクリート舗道にぶつけたことをあげています。

「以来、私は身体にガタが来て、歩く平衡感覚を失ったようである。すっくと

立って、さっさと歩き出すということが出来なくなってしまった。歩くときは、

自分ではそれほどでなくても、あぶなっかしく平均をとって歩いているように見え

るそうである。」

 この「わたしと健康」は、「西医学」という誌の1977年12月号に発表されたもの

で、この時の四郎さんは68歳でありました。

 この文章を最初に読んだ時の当方は30歳をちょっとでたところで、ありまして、

身体にガタが来てなんてことはほとんどわかっておりませんでした。

それから40年が経過して、当方の年齢は、これを書いた時の四郎さんの年齢を超え

てしまいました。

 このあとまもなく、四郎さんはペンを持つことが難しくなり、口述筆記で作品を

発表するようになりです。

 こうしたことは、四郎全集の編集を担当された福島紀幸さんが「ぼくの伯父さん

長谷川四郎物語」に書き残してくれています。

 当方がお元気な頃の四郎さんをお見かけしたのは、1976年札幌でのサイン会の場

においてでありますが、そのあと縁があってお見舞いにでかけたときには、すでに

お話をすることが出来ず、ベッドに横たわっておられました。

 

今年も「山猫忌」を

 4月19日は長谷川四郎さんの祥月命日でありまして、この日を「山猫忌」と

いって当方はこのブログで追悼を行っているのですが、長谷川さんが亡くなっ

て35年が経過しますのに、いまだお墓参りはしたことがありませんです。

 小沢信男さんが世話人代表のような形で「ぼくの伯父さんの会」というのが

できたのが昭和57(1982)年のことでした。

 「ぼくの伯父さん」というのは、四郎さんが1971年に青土社から刊行

した小説集のタイトルでありますが、この言葉は、このあと全集(1976年)

の内容見本の冒頭でも使われたのでありました。

長谷川四郎氏の文章の魅力は、魔法の杖のようなもので、読む者のうちに、

えもいわれぬ歓びを響かせます。しかしなぜそうなるのか。それがなかなかに

捉えがたいのです。・・・

 すなわち長谷川四郎氏は、われらのごく身近にいる『ぼくの伯父さん』であ

り、同時にまた遥か天空に渦巻く一箇の星雲なのです。」

 晶文社にかわってこの文章を書いたのは、小沢信男さんでありまして、これ

がのちの「ぼくの伯父さんの会」につながっていくことになりました。

 小沢信男さんが「ぼくの伯父さんの会」の世話人ということで書いています

のは、きゃらばん文庫からでた「ところで今は何時かね」の編者あとがきで

ありました。

「なお『ぼくの伯父さんの会』というのは、べつになんの規約もなし、本書を

楽しんでくださる方はどなたも会員です。ただ、お祭りの係員のようなものと

して世話人がおります。主に文の編集と、制作の前半を担当しました。そして

『きゃらばんの会』が、主に画の編集と、制作の後半を担当しました。すなわ

ち共同製作です。」

 ということで、世話人として小沢信男 高頭祥八 玉井五一 福島紀幸の

四氏の名前があがっていました。

 「ぼくの伯父さんの会」は、発足して40年になりますが、私は会員だと

思われる方は、今はどのくらいいるのでしょうね。当方が生きている限りは

この会は存在するのでありますよ。

 

新しい生活習慣に

 先週に引き続きで、木曜の夜はジムでトレーニングとなりです。これは

新しい生活習慣になるでしょうか。終えて戻ってきてから、シャワーを浴び

たりしますと、22時をまわってしまうことです。

 さてさて、本日の読書をしなくてです。足立巻一さんの「虹滅記」は残りの

ページが少なくなりましたので、ここまできましたら、先を急ぐ必要はありま

せんので、ゆっくりと楽しむことにいたしましょう。(たぶん、足立さんの

本の次は「やちまた」を手にすることになるのでしょう。舞台となるまちを

訪ねる予定もあることですから。)

 そんなわけで、最近に届いた本を手にしてパラパラと中をのぞいてみること

になりです。

 黒鳥社というところからでた「編集の提案」であります。

編集の提案

編集の提案

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 津野海太郎さんの編集論(というか編集に関しての文章)を集めたもので、

宮田文久さんという編集者が文藝春秋社を離れてフリーとなって、初めて

だした一冊です。

 先日にこの本がでると聞いて、「小さなメディアの必要」から文章が取られて

いないかなと思って記したのでありますが、やはりいくつかとられていて、これ

はうれしいことです。(あのちょっと変わったサイズの晶文社からでた元版の

小さなメディアの必要」は、津野さんファンには必携の一冊でありますよ)

 この本には「子ども百科のつくりかた」という、これまた当方の好きな

文章が収録されていて、その冒頭のところを見ましたら、書き出しは次のよう

になります。

長谷川四郎の文章を読んでいたら、そこに三年前に死んだかれの友人の幽霊

がふらりと登場した。死んでいることを忘れてしまったみたいな花田清輝の幽霊

だ。」

 このくだりを目にして、当方は4月19日が長谷川四郎さんの祥月命日で、当方

は、その日を山猫忌としているのを思いだすことになりです。今月の初めには

山猫忌のことをしなくてはと思っていたのに、うかつなことでありました。